雪の女王V
先生のお屋敷には何もかもがあった。何もかもが望むがままに与えられた。
けれどある日、私は疑問を抱いた。
「そういえば、いつになったら冬はやって来るのかしら」
それは編み物をしている時だった。お世話になっているのだから、と私は先生の分のマフラーを編もうとして、もう長いこと寒さを感じていないのを思い出した。
お屋敷に差し込むのは穏やかな陽光。季節が春から移ろうことはなく、花園もまた四季折々の花が絶えず咲き誇っていた。それに疑問を感じたことなどなかった。
今、この瞬間までは。
「私、何を忘れているの?」
いてもたってもいられなくなった私は自分の部屋に飛び込んだ。
室内を充たす薔薇の香り。枕元に活けられた白い薔薇は相変わらず美しかったけれど、今の私にはどうだってよかった。
「……っ、」
私はクローゼットを開けた。
今の今までずっと常春の国にいたからすっかり忘れてしまっていた。ここには私の持ち物が仕舞ってあったのだ。このお屋敷に来た時身につけていたものが。
「ああ、そうだわ、私、」
ぽろぽろと。ひとりでに溢れ出す涙と一緒に、剥がれ落ちるのは覆い隠されていた真実。ベールを剥ぐように奥底に仕舞い込まれていた記憶が溢れ出す。
「私、どうしてあなたのことを忘れてしまっていたのかしら」
クローゼットの中。眠っていたのはいつかの日のマフラーだった。かつて一度は彼の手元に巡ったそれ。思い出の一片に触れたことで、私はそれまで忘却してしまっていたのが嘘のように全てを思い出していた。友人がいなくなったこと。彼を探すために街を出たこと。その全てを。
思い出した私は涙を拭った。ーーこうしてはいられない。今すぐこのお屋敷を発たなくては。
もうどれほどの時間をこの温かな揺りかごで過ごしたろう。どれほど無為に過ごしたろう。ーー彼がいなくなってから、どれだけの時間が経ったろう。
考えれば、もうどうしようもなかった。
私は急いで身支度を整えた。必要なもの。必要のないもの。前者は思い出の品で、後者は繋がりを示す聖書だった。でも彼に関わらないものなど今の私には必要ない。
「……行くのかい?」
階段を駆け降り、扉に手をかけ。そうしたところで後ろから声をかけられた。
声の主は先生だった。彼は寂しげに影を落とし、しかし静かに問いかけた。
だから私は頷いた。
「はい、先生。……ごめんなさい」
「いや、いいんだ。それが君の望みなら。きっとそれが私の役割だったんだろう」
お世話になったのは事実。なのに恩を仇で返す形になって申し訳ない。
眉を下げる私に、先生は優しく微笑んだ。その言葉の意味が私には難しくてわからなかったけれど、彼がいい人だというのだけは理解していた。
「ありがとう先生、さようなら!」
そうして私は私のための箱庭を飛び出した。親のように優しい先生から背を向けて。さよならと決別して。
私は灰色の世界に足を踏み出した。
楽園の外では木枯らしが吹いていた。乱立する木々は物悲しく緑を落とし、辺り一面侘しいばかりの景色が広がっていた。
「あぁ、ここはもう冬なのね」
気づけば私の体は記憶よりも幾分か大きくなっていた。手も足も、前よりずっと長い。それでも彼には届かないのだ。そう思うと、途方もない気持ちに襲われた。
「……ダメよ、弱気になっちゃ」
静寂に溶ける音。言い聞かせる声もどこか寒々しい。世界のあらゆるものが死に絶えた。そんな沈黙に私は泣きたくなった。
それでも前に進まなければならない。私を庇護する者はもういないのだから。私は私の足で歩み続けなければならないのだ。
両頬を叩き、踏み締める足に力を籠める。そうして道なき道を進むうち、一羽のカラスが枝に止まった。
「こんにちは、ひとりぼっちのお嬢さん。こんなところでどうしたんだい?」
「こんにちは、カラスさん。でもね、私はひとりぼっちじゃないのよ。お友だちが待っているの」
カラスのくせ、ひどく甘ったるい声は耳慣れないものだ。けれど久方ぶりに聞いた命ある音色に私は弾んだ声を上げる。
「お友だち?」
「ええ、そうよ。あなた、見たことないかしら」
気を良くした私はカラスに語って聞かせた。どうしてこんなところにいるのか。それから、大切な友だちの特徴を。
話し、考え込むカラスを期待の籠る目で見つめた。
「……それなら見たことある気がするよ、お嬢さん」
「まぁ!教えてくださらない?彼ったらどこに行ったのかしら」
勢い込んで訊ねると。カラスは「彼ならばこの先のお城にいますよ」と言った。
「お城に?どうして?」
「それは彼がこの国の王子様になったからです」
カラスが言って聞かせたのは私を驚かせるには十分すぎるものだった。
カラスの言う「彼」は旅人だったらしい。古ぼけた長靴を履いていて、けれど美しい目を持っていた、と。
それを聞いて、私は「間違いなく彼だわ!」と叫んでしまった。だって彼もおんなじ格好をしていたし、とても綺麗な翡翠の目をしていたから。
カラスが言うには、その「彼」は城主さまに気に入られたらしい。跡取りのいない城主さまは「彼」を王子様にしてしまったのだ。それで今も「彼」はお城で暮らしているのだと。
「あぁ、それじゃあ彼はもう帰ってはこないのかしら」
彼の無事を知り。歓喜した心がすぐさま冷え込んでいく。
それは悲しみだった。彼が幸せなら他に望むものはないはずなのに、傍らの空虚がたまらなく悲しい。
「どうか泣かないで子猫ちゃん。君は本当に“彼”のことが好きなんだね」
「ええ、そうね。私、本当に彼のことが好きなんだわ」
カラスの羽が目元を掠める。滲んだ涙を拭うように。柔らかな感触に、温かな声に、私は微笑みを浮かべた。
「もう彼が帰ってこないのだとしても。それでもやっぱり会いたいわ。会って、お別れをしなきゃ」
「そうだね、そうするといい」
カラスは賛同に羽を鳴らす。そうしてから、彼は空を舞った。
「案内するよ、“彼”の元まで。着いておいで、お姫様」
「面白いことを言うのね。でも私はお姫様にはなれないわ」
お城に勤めているらしいカラスは、その性格もまた高貴なものになってしまうようだ。お伽噺の王子様みたいな台詞に苦笑して、私は「お願いね」と申し出を有り難く受けることにした。