(元)公主、思いを馳せる
名前が降り立ったのは蓬莱島ーーその緑豊かな草原の中であった。
土の湿り気を帯びた匂い。清々しいほど澄み渡る空。それは長らく朝歌では見たことのないものだった。というより、現世の何処にもあって何処にもないーー失われたはずの神話の世界であった。
「俺たちはこっちさ」
そんな中を名前は天化に導かれる。手を引かれ、緑と記されたカプセルへと。入った後で、「あなたは良いのですか?」と訊ねた。
「ん?」
「あなたもあちらに行きたいのではーー戦いたいのではないのですか?」
名前が知る限り。武成王はそういう人であったし、その息子である彼もまた同じであろうと思っていた。それは血縁故だけではなく、彼の鍛え抜かれた体を目にしたからでもあったし、紂王との戦いを見ていたからでもあった。
けれど天化は迷うことなく緑を選んだ。妲己の配下との戦い。その挑戦権を与えられる赤のエレベーターではなく、彼は観戦者の道を誰に言われるでもなく選んでいた。
それが不思議で名前は首を傾げたのだけれど。
「あー……」
天化が洩らしたのは気まずげな声。「それはまぁ、そうさ」頭を掻きながら彼は言う。それでも、と。
「師叔に約束したからな、もう無茶はしねぇって。だから今回は我慢するさ」
そう苦く笑った彼の視線。その先にあったのは包帯に巻かれた体である。腹部を守るよう、大袈裟なほどに強固な白は、彼が負傷していることの証だ。
ーーそういえば、父との戦いでもつらそうにしていた。
ふと思い出すのは二月近く前のこと。殷王朝最後の日、禁城にて紂王と刃を交えた彼は、酷く苦しそうな様子だった。ぼやける焦点。上がる息。それは彼が手負いであると示していた。
その時の傷が未だ完治していないのだろうか。それにしては随分治りが遅いように思われるが……。
「それは残念でしたね」
「あぁ。ま、しょうがねぇさ」
名前が深く訊ねることはなかった。聞けばきっと彼は答えてくれたろう。だがそうすることをしなかった。それは自身のやるべきことではないと思ったからだ。
「公主……名前こそ戦いたいんじゃないか?」
代わりに。
彼がそう聞いてきたのは闘技場に辿り着いた後。映像ではない妲己と対面してからだった。
妲己はーー名前の父を見捨てて去っていった彼女は、名前を見ても何も言わなかった。ただ驚いたように一瞬だけ目を丸くして、それから深く笑んだ。思わせ振りに、愉しげに。蠱惑的な笑みを見せ、だというのに何も言わなかった。
「……そうですね、」
それが、ひどく腹立たしい。
父は確かに彼女を愛していたというのに。なのに妲己は少しの未練も見せなかった。紂王のことなど知らないとでもいうかのような素振りに、名前の胸は波立った。
だから天化に言われ、唇を噛む。そうしなければ激情のままに叫びを上げてしまいそうだった。言ってはいけないことをーー公主としての矜持を捨ててしまいそうだった。
「妲己を憎んでいないと言えば嘘になります。できるならこの手で討ち取りたい。……でもそれは、あなたも同じでしょう?」
それを圧し殺して、名前は言葉を続ける。隣に立つ青年へ視線を移し。静かに訊ねた。
「……あぁ、そうだな」
そして彼は、それを肯定した。その瞳の奥底に沈む、確かな悔しさ。それは名前にも覚えのあるもので。内心、親近感が広がった。
「そう言うあなたこそ恨みはないんですか、殷王家に……紂王やわたしに」
だからか。
殺さなくてよかったのか、と。名前は暗に問うた。深入りすべきでないと頭ではわかっていたのに。どうしても、聞かずにはいれなかった。
覚悟はあった。黄家の忠誠を裏切ったのは事実で、喪われた命は取り戻せないのも現実で。だから恨まれても憎まれても仕方がないと、名前は腹を括っていた。
なのに天化は、「どうして?」と問い返す。思案投げ首といった風に。
「どうしてって、」澄んだ目に見つめられ、名前は思わず口ごもる。
「だって、わたしたちは……わたしは止められなかった。妲己のことも父のことも、……あなたの、ご家族のことも」
けれど言葉を紡げば心は明確なものになった。彼に伝えたいこと。伝えなければならないこと。贖罪と懺悔。それは自己満足であったし、その自覚もあったけれど。
それでも、名前は。
「確かにあれは妲己に惑わされた結果です。けれど選んだのはわたしたちで……それがわたしたちの罪です。だから、」
言葉は口火を切ったことで濁流のように零れた。塞き止められていた感情。姜族の村を訪って以来なおのこと降り積もっていた思いが一気に溢れ出す。
ーー恨まれても文句はない。こんなに優しくされる謂れだって。
なのに天化は、穏やかに笑う。
「恨みなんてあるわけないさ。第一名前は道士でもないし……。それに俺っちは親父があーたのこと気にかけてたの知ってるさ」
温かな眼差し。近しい者を見るかのような目に、名前は戸惑う。
思いもがけない態度、台詞。故に「武成王が……?」と洩らす声も自然訝しげなものになる。
それに天化は「あぁ」と鷹揚に頷くことで答えた。しかし続く言葉に名前は目を見開く。
「それこそずっと昔、俺っちがまだ人間界にいた頃から。俺は名前のことを知ってた。親父の言うお姫様がどんな子かって。大きくなったら会えるって親父が言うもんだから、楽しみにしてたもんさ」
けれど天化は仙人界を選び、それもただの昔話となった。ーーこうして、不思議な巡り合わせで出逢うまでは。
「そう、だったのですか……」
ぼうとした呟き。周囲の喧騒は遠く、名前の意識は遡る。天化をーー彼のどこか懐かしい面立ちを見つめるうち。
ーー声を聞いた。今ではもう遠く隔たってしまった人の、温かな声を。
脳裡に甦るのは平和だった頃の記憶。長い間血と闇に彩られていた朝歌では、恋しがってはならないと封じてきた思い出。名前がまだ幼く、家族も皆健在であった頃の日々であった。
武成王黄飛虎。名門である黄家の主は、名前が物心ついた時から殷王家に仕えてくれていた。武成王としての職務だけでなく、それこそ子供の戯れにまで。名前たち兄弟に稽古をつけてくれていた黄飛虎は、その合間によく家族の話をしてくれた。
美しい妻の実は頑固な一面だとか、聡明な第三王妃が幼少期はお転婆だったことだとかーー息子たちがいずれ次代の王家を支えるであろうことだとか。そうしたことを、黄飛虎は随分楽しげに語ってくれた。
そして名前はそんな彼の話が大好きだった。小さな世界で生きる公主にとって、それはあまりに眩しくーー憧れずにはいられなかった。間違いなく名前の幸福な一時は、黄飛虎によって与えられていたのだ。
そんな日々を久方ぶりに思い返しーーふと気づく。
そういえば、わたしも。
「……あなたのこと、本当はずっと昔から知っていたんだわ」
「え?」
今度は。
天化が目を丸くする番だった。そうすると青年らしくキリリとした容貌に幼さが混じる。
手にすることのなかった日々の残滓。それをほんの少し残念に思いながら、名前は口を開く。
「わたしもあなたのこと聞いていました。武成王はあなたのこと、本当に誇らしく思っていたようですから」
「うわ、恥ずかしいことしてんな、親父のやつ……」
言葉通りに天化は顔を顰める。仄かに目許を赤らめて。
文句を言いながら、けれど内心がそればかりではないと名前にもわかった。
昔を懐かしむ目。そこには父への深い愛情が確かに息づいていたのだからーー。
「でもだからこそわたしはあなたで良かったと思えたんです。あなたに最期を託したいと……」
名前は微かに笑み、胸に手をやる。
そこにはまだ癒えぬ傷がある。きっと、彼にも。
未だ父の最期を思うと胸は痛む。その横暴のために傷ついた民への罪悪感も。取り零してしまった幾つもの命への悲しみも。
ーーそれでも、後悔ばかりではない。
「その選択だけは間違っていなかった。今こうして話していて、確信が持てました。……あの時城に来たのがあなたでよかった」
「名前……」
彼は驚いたように名を呟く。しかしその目はすぐに柔和に細められた。たぶんきっと、名前も同じ表情をしていたろう。
自身でも不思議なほど、名前の心は凪いでいた。それは恐らく相手が彼であったからであろう。
「もう少し早く出会えていなかったのが残念でなりません。あなたを夫に迎えれば幸せになれたでしょうに」
「え、」
「冗談です。一応わたしは申公豹の妻ですから」
だから名前は微笑み、悪戯な言葉を吐く。
きっと彼となら幸福な人生を歩むことができたろう。言動に苛立つことや頭を痛めることもない、心安らかな日々を。
ーーけれどそれは、名前の選ばなかった道の話だ。
微かに惜しむ心を冗談と嘯いて、名前は笑む。
「……それで名前はいいのか?あんなの公主に対するやり方じゃないさ」
「ええ、それについては同感です。……でも、」
ふと。天化はその目を真剣なものにする。その奥底でちらちらと揺れる優しさ。名前を気遣う気配に、心底彼は心優しい人なのだと痛感する。
それでも名前は首を横に振った。
天化は申公豹のぞんざいな扱いに怒ってくれたけれど、しかしそのお陰で名前は彼とこうして語らうことができた。だから申公豹のなすことがすべて気紛れだとは思わない。いや、名前がそう思いたいだけかもしれない。
でも、彼に救われたのは事実だ。あの時、どこにも味方がいなかった名前に。手を差し伸べてくれたのは他でもない彼だけだった。
「これがわたしの選んだ道ですから」
だから勘違いでもいい。例え突き放されようと。玩具のように捨てられようと。名前は今を後悔していないのだから。
「そっか。……ちょっとだけ残念だな」
「あら、嬉しい言葉を言ってくれるのですね」
名前と天化は笑みを交わす。互いの道がこれから先交わることはないのだと予感を抱きながら。それを滲ませることなく、旧い友にするように笑いかけたのだった。