Festa della Donna


 プリマヴェーラ。ナポリの春は穏やかで、故に微睡みは深く。夢覚めやらぬ思考、大きな欠伸を洩らし、それでもなんとかベッドから身を起こす。
 そう、呑気に寝ているわけにはいかないのだーー今日だけは。

「あら今日は早いのね、ナランチャ」

 おはよう、とキッチンから顔を出す名前。輝かんばかりに白い顏には相変わらずの微笑み。常であればナランチャもそれに応え、聖母子像の如き様相を呈するもの。
 だがこの朝ばかりは違っていた。

「あ……、オレ、ちょっと出かけてくるよ」

「もうすぐ朝御飯できるわよ?」

「う、うん、……けど、えーっと、そう、急ぎのものを思い出したから、さ」

 しどろもどろ。挨拶もそこそこにナランチャは身支度を整える。とはいってもそれは簡単なもの。寝癖を軽く撫でつけ、入れてくれたジュースで喉を潤し。
 着替えをしただけでナランチャは自宅を飛び出した。名前の怪訝そうな目を背中に感じながら。

「あー……危なかったぁ〜……」

 石畳を駆け、大通りに出る。そこまで行ってようやくナランチャは足を緩めた。
 振り返れば連なるのは雑多な家並み。自分の家も、勿論名前の姿もどこにもない。だというのに落ち着かないのは疚しいことがあるからだろうか。

「ば、バレてないよな……?」

 呟く声に答えはない。しかしその代わりとばかりに心臓はどくどくと脈打っている。
 ナランチャは深呼吸をし、それからポケットに手を突っ込んだ。

「……よし、」

 指先に感じる冷たさ。狭い空間の中で硬貨はぶつかり合い、乾いた音を立てた。
 辺りを見回すと、近くの広場には花屋の屋台が並んでいた。そのいずれも黄と緑が色鮮やか。華やいだ様子にごくりと唾を飲み込む。
 ーーだが、こんなとこで怖じ気づいてはいられない。
 『オレだって一人前の男なんだ』そう己を叱咤し、ナランチャは一歩を踏み出した。

「た、ただいま〜……」

 用事を終え、家路につく。開くのは自分の家のドア。なのにナランチャはそうっと足を忍ばせる。……なんだかイケナイことをしている気分だ。

「おかえりなさい、本当に早かったわね」

「あー……うん、」

 名前は朝食を並べたテーブルの前にいた。リコッタチーズとドライフルーツの入ったパイ、スフォリアテッラ。輪っか状のビスケット、チャンベッリーネ。色鮮やかに盛りつけれた果物。そのいずれにも手はつけられておらず、ナランチャの帰りを待っていたことが窺えた。
 ーーそんな、些細なことにすらナランチャの胸は熱くなる。

「今コーヒーを入れるから……」

「ま、待ってッ!」

 だから、今しかないと思った。この機を逃したら伝えそびれてしまう。気恥ずかしさに負けて、なかったことになってしまう。
 だから、今。ナランチャは己の退路を絶つために名前の手を掴んだ。

「……ナランチャ?」

 名前は何も知らない。ただ常とは違う様子であるのだけは気づいていたから不思議そうに小首を傾げる。首を傾げて、それから窺うようにナランチャを覗き込んだ。
 縮められる距離。鼻先を吐息が掠める。澄んだ瞳に射抜かれる。
 名前にとってはなんてことのない動作であったのだろう。けれどナランチャは大袈裟なほどに肩を揺らし、視線をさ迷わせーーけれど、その手を離しはしなかった。
 名前を引き留める手。掌に感じるのはその腕の細さと日常となった温もり。そのすべてに背中を押され、意を決す。

「これ……ッ!」

 そしてその勢いのままーー背中に隠していたものを名前の前に差し出した。

「これは……ミモザ?」

「う、うん……」

 面食らった。そんな顔で目を瞬かせる名前に、ナランチャは言葉を詰まらせる。花束を渡してしまえばそれで終わり。そう思っていたけれど、実際は違う。
 ナランチャはそろそろと名前の反応を窺った。渡すまでの緊張とはまた違う強張り。心臓はやけに喧しいし、掴んだままの手には汗が滲む。いけないことをしているわけではないのに頬まで熱が駆け上がってきて逆上せそうなほど。カラカラに渇いた喉が息苦しい。
 そんなナランチャから黄色の花束を受け取ってーー名前は相好を崩した。

「ありがとう……、嬉しいわ、本当に。それしか思い浮かばないくらいに……うれしい」

 花が綻ぶようにして名前ははにかむ。瞳に宿るのは歓喜と愛情。心底嬉しいのだと訴えてくる眼差しに、ナランチャはたじろぐ。

「そ、そっかァ……。嬉しいんなら、ウン、よかったよ」

 なんだかまともに顔を見ることができない。
 そんな自分にも驚きながら、ナランチャが思い出すのは母との思い出。そういえば最後に花を贈ったのはもうずっと昔のことだ。母がまだ元気だった頃、近所の子供たちと同じようにナランチャもそこらの道に咲いた花を贈った。
 けれど母が亡くなって、以来そうした記憶は遥か彼方。だからいやに緊張したのだ。人に花を贈る日が来るなんて、考えもしなかったから。
 でも、と改めて名前を見る。ナランチャよりほんの少し低いところにある顔。愛おしげに花束を抱き締め、「どこに飾ろうかしら」と些細なことに頭を悩ます彼女は鼻歌でも奏でそうな調子。弾む声に輝く眼。そういったあらゆるものにナランチャの心は温かなもので満たされる。
 ーーこんな顔が見れるなら、勇気を出した甲斐がある。
 ついでに言えばミスタに感謝しないと。彼が「きっと名前はこういうの喜ぶだろ」と教えてくれたから、ナランチャはこの記念日の存在を思い出すことができた。フェスタ・デッラ・ドンナーー愛と幸福を呼ぶ花を大切な女性に贈るこの日のことを。

「これは私も頑張らないと……。夕食は期待しててね」

「え、いいよそんな張り切らなくたって」

「だめ、それじゃあ私が納得できないもの」

 テーブルに花瓶を置いて、名前は腕を捲る仕草をする。……あんまり喜ばれると、ナランチャとしては座りが悪いものなのだが。
 でも同じだけの喜びもあってーーナランチャは笑った。
 来年も、その次の春も、きっと色鮮やかなものになるだろう。
 そんな予感を抱きながら。






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二月分アンケート一位記念。お答えくださった皆さまありがとうございました。