夢を見ていた――のだと思う。断定できないのは目覚めたはずなのに今が夢か現か名前には分からなかったからだ。ふわふわとした意識と実感のない肉体。名前は手を握った。握って、開いて。そうしているはずなのに自分の体じゃないみたいだった。ひどく遠くに来てしまったような感覚。意識だけが浮遊して、肉体は眠っていた。あるいは、もう。
「目覚めたのか、名前」
視線を上げる。暗闇の中で光る蒼。春の日差しのような温もり。名前は息をついた。
「……ゆめをみたの」
掠れた声。なおも言葉を紡ごうとすると人差し指で遮られた。しい、と塞がれた唇。零はサイドテーブルから水差しをとった。
「飲んで」
注がれた水は口端を伝ってシーツを濡らした。嫌だな、と名前は思った。思ったのだけれど、体は動かなかった。夢の中ではあんなに自由だったのに。
――そう、夢を見ていたのだ。
「すてきな夢だったの、とても、とても」
名前は言った。それがどんな具合でどれほど幸福だったのかを話そうとした。でもダメだった。夢は夢で完結している。名前はそこには至れない。幸せな夢を見たのだと思えるのに、何一つとして記憶に残っていなかった。
それがひどく悲しくて、一筋涙が零れた。零は濡れた頬に手を添えた。「夢なんて気にすることないさ」彼が言うと本当にそんな気がしてくる。
「そう、そうね。しょせん、夢だもの」
決して叶わぬものならないのと同じだ。口に出すことで名前は自分を納得させた。
「でも本当に幸せだったの」
そういえば、いつの間に眠っていたのだろう。ベッドに入った記憶もなければ日が落ちたのも覚えがない。
「わたし、寝ちゃったのね」訊ねると、零は頷いた。「疲れてたんだろう」そうかしら。そんなに疲れた覚えはないのだけれど。名前が首を傾げると、背中を抱く力が増した。「……大丈夫だ」大丈夫だよ、名前。耳元の囁きは切実な色をしていた。
名前は曖昧な景色に手を伸ばす。「わたしは平気よ、だって零がいるもの」零の背を撫でる。大丈夫、大丈夫だから。腕の中にいる名前には零の顔は見えない。ただ、彼の背が震えたのだけが微かに伝わってきた。
少しして、零は言った。「桜を見に行こう」と。
「こんな時間に?」
時計を見なくとも今が真夜中なのは静まり返った部屋の様子で分かった。どこもかしこも静寂に包まれている。名前は目を丸くした。どうして彼がそんなことを言い出したのか見当もつかない。なのに零は理由を口にせず、名前を抱き上げた。ただ「名前と見たいんだ」とだけ言って。
着いた先はなんてことはない堤防敷――そのはずだった。
「わぁ……っ」
真っ直ぐに続く道と河。それに沿うようにして桜の木は整然と立ち並んでいた。どっしりと根を下ろす幹。しなやかに伸びた枝。そして空いっぱいに咲き誇る薄紅色。それらは月の光を浴びて白く光っていた。
「どう?夜桜もいいだろう」
どこか自慢げな口ぶり。国を愛する彼らしい語調。名前はくすくすと笑った。「……うん、」本当に、きれいだ。
名前は気づかなかったけれど今夜はよく晴れたらしい。夜空には雲の欠片も見当たらなかった。月光がすべてを削ぎ落としたみたいだ。世界は月が支配していた。あらゆるものがその恩恵を受け、輝きを増していた。河も、桜も、零も。すべてが美しかった。そのどれかひとつが欠けても世界は成り立たないのだと名前は思った。
穏やかな風が並木道を吹き抜ける。風に靡く髪。いつもより白々と輝く零の髪はより一層彼の滑らかな輪郭を際立たせていた。瞳も星を閉じ込めたみたいにきらきら瞬いている。それらを見上げて、名前はこの世の奇跡に感謝した。何度してもしたりないけれど、彼を与えてくださった神に腕を組んだ。――あぁ、神様。まだ願いを聞いてくださるのなら、どうか彼の幸福を。毎晩の祈りはいつになったら届くのだろう。
「……名前に、見せたかったんだ」
ぽつり。花びらと一緒に舞い落ちる言葉。零はどこか遠くに目を馳せていた。「名前と、見たかったんだ。春も夏も秋も冬も、これから先、ずっと」彼の薬指には銀の指環が嵌まっていた。そして、名前の薬指にも。
名前は自分のそれを撫でた。「……わたし、幸せよ」この指環は名前に多くのものを与えてくれた。生と愛と夢を。未来を見ることを教えてくれた。
「それがどれだけ難しかったか、あなたならわかるでしょう」
過去に縛られていた男は苦く笑った。「……あぁ、そうだな」その肩からは沢山の荷物が下ろされていた。
組織は瓦解し、降谷零の背負っていたいくつかの事柄にも決着がついてしばらくが経った。多くのことが過去になった。そう、物事にはいつか終わりがくるのだ。良いことにも悪いことにも永遠はない。
一人分の足音と回るタイヤの音。踏みしめる地面は薄桃色で浮世離れした雰囲気だった。本当に、夢のよう。――ここを歩けたらもっと幸せだったのに。そう思ったとき、不意に記憶が甦った。夢の記憶が。
名前は笑った。「ねぇ、零、わたし、夢を見たのよ」目を閉じる。そうすると、瞼の裏にありありと描くことができた。夢の続きを。「とても、幸せな夢」叶わぬ夢を、見たのだ。
「どんな夢を?」名前は振り仰いだ。零は身を屈めて名前に目線を合わせている。彼の手が名前の頬に触れる。その薬指に填まるお揃いの指環。ほんの少しで触れ合えそうな距離。名前は目を細めてはにかんだ。降谷零。うつくしいひと。美しく、気高い人。そんな人の人生をほんの少しでも分け与えてもらえたことは、名前にとって十分すぎる僥倖だった。
だから夢は、叶わないのが当然なのだ。
「あなたがいたわ。その隣には子どもも。あなたに似た子よ、とってもかわいいの。そんな子が私を呼ぶの。振り返って、私を呼んで。だから私は駆け寄ったわ。抱き締めて、抱き締められて。そんな私たちを丸ごとあなたは包み込むの。すごく、温かかった。……温かくて、幸せだった」
こんなに話したのはずいぶん久しぶりな気がする。疲れて、息が上がった。掠れた空気が喉を鳴らす。
それでも最期まで零の顔を見ていたかった。彼は不意打ちを食らったような顔をしていた。それからその瞳がじわじわと潤んでいった。「名前……っ」眉間の皺。苦し気な顔。それらは抱き締められたことで見えなくなる。
「どうして、こんな……っ」
ぎゅっと掻き抱かれる。名前の足は宙を切る。名前には幻想的な桜色と真っ白な月しか見えない。それすらも曖昧で、名前は零に頬擦りした。
「夢は夢よ。大丈夫、私、幸せだから。あなたが私を幸せにしてくれたから」
だから今死んでしまっても後悔はない。思ったけど、その言葉は零を悲しませるものだと分かっていたから飲み込んだ。でも零にはそれすら暴かれている。「言わないでくれ」絞り出された声。懇願。「名前、君まで喪ったら、俺は」どうすればいいか分からないんだ。途方にくれたように彼は言った。零は、優しすぎる。
「幸せになるの。私が過去になって、遠く離れたって、それでもなくなるわけじゃないでしょう?」
髪を撫でる。月の下では金にも銀にも見える煌めき。でもその手は振りほどかれた。「君には分からない」零は唇を噛む。
「先にいく、君に分かるものか。残された方はずっと置いてかれたまま、俺はどこにもいけやしない」
「そんなことないわ、道は続いてるもの」
「いいや、終わりだ。ここが終点なんだ。そんな未来なんて、俺は」
零の目尻から涙が溢れた。
永遠なんてない。何事にも終わりはくる。良いことにも、悪いことにも。その通りだった。いくつもの問題が解決して、名前は歩き出したけれど、でもすぐに終点が見えてしまった。
名前の体は酷使されてきた。人の身体を超越した能力。無理やり引き出されたそれは、名前の肉体に大きな負荷をかけていた。だから、壊れた。やがて名前は自力で立つこともままならなくなった。視界はぼやけ、耳は遠く、突然意識が落ちるようになった。
終わりは見えていた。名前にも、零にも。
名前は涙を拭った。きらきらとした輝きは宙を舞う。桜と一緒にとけて、消えた。
「……俺はきっと、一人では生きられないよ」
零はひどく悲しいことを言う。「名前のためなんかじゃない、俺が、ダメなんだ」吐息が戦慄く。瞳が揺れる。
――神さま。名前は祈った。いつになったら願いを叶えてくださるのですか。いつになったら彼は幸福になれるのですか。早くしないと、彼は。
名前には零を否定することはできなかった。幸せになってほしいという願いもまた、勝手なものだから。
唇が落ちる。――あぁ、このまま。
「消えてしまえればよかったのに」
冷たい唇で、零は歪に笑った。溶けて、消えてしまえれば。名前も零も、苦しむことはなかったのに。
でも名前にはどうすることもできなかった。ただ、神に祈る以外は。