雲貴高原


 惚れた腫れたという感情はとうの昔にどこかに置き忘れてきてしまった。
 少なくとも太公望自身はそう思っていたし、仙人界という特殊な環境下ではさして珍しいことではなかった。
 ーーひとりの少女と出会うまでは。

「見てください太公望どの!見事な春ですよ!!」

 少し先を行く少女が振り返る。
 風に翻る豊かな黒髪。見慣れた色であるはずなのに、太公望にはそれがひどく眩しく映る。
 ーー名前、そう呼ぶ声もどこか遠く。透明よりも澄み渡る清らかな風に目を細めた。

「太公望どの?」

「あぁ、いや、おぬしは相変わらず元気なものだと思ってのう……」

 言うと、名前は頬を染めた。羞恥ゆえの反応。ころころと変わる表情にーー出会った頃のままの無垢さにーー太公望の胸は自然と温かなもので満たされる。

「でもだって……あんまりにもきれいだったから」

 口ごもる名前の向こう。なるほど、彼女の言う通り鮮やかな緑が広がっている。
 大きく切り立った大地。竹林のように並び立つ秀峰。それに囲まれた“パーツ”と呼ばれる盆地。水捌けのいいこの地を人々は農耕地帯として利用していた。
 恵まれた自然と共に生きる人々。この時も盆地には農業に励む幾つもの影を認めることができた。
 それを名前は温かな目で見つめる。まるで懐かしい景色を目にしたかのように。故郷を見るような慈愛の滲む眼差しで見知らぬ土地とそこに生きる人々を見つめるのだった。

「あの、どうかなさいましたか……?」

 その姿を距離を置いて見守っていた。ーーそのはずだった。
 けれど名を呼ばれ我に返った時。太公望の手は彼女の手首を掴んでいた。花の茎のように細く、頼りないそれに。

「……景色を眺めるのもいいが、わしはそろそろ空腹で死にそうだ」

「まぁ、それは大変。ごめんなさい、急ぎましょう」

 慌てる名前に罪悪感を抱かないと言えば嘘になる。けれどそれよりも自分の不審な行動の理由を誤魔化すことができたという安堵の方が強かった。
 然り気無く、そう、然り気無く。意識するまいと言い聞かせ、そっと拘束をとく。そうしても名前は何も言わない。気づかれていないのだーー内心、ホッと胸を撫で下ろす。
 この国の城門。太公望のために入国を急ぐ背を見つめ、思う。
 最初はこんなつもりではなかった。女カとの戦いが終わり、太公望が放浪の旅に出た後。ーー風の噂に、彼女もまたひとり朝歌を離れたと知った。
 それは太公望に驚きを齎すと同時に、どこかでそうなる予感がしていたと納得もさせた。彼女はとても義理堅い性格をしていたからーー例え生きづらくともその選択をするのはごく自然なことと思えた。
 だがそれが名前自身の決めたこととはいえ、その心に痛みがないはずがない。彼女は涙脆くはなかったけれど、だからこそ太公望はそのままにしておくことができなかった。
 ……というのも今ではもう言い訳にしか聞こえないが。
 いや、もしかすると最初からそれは口実だったのかもしれない。偶然を装い彼女と再会したのも。旅の道連れにと誘ったのも。すべては太公望自身がそれを望んだからであるのかもしれない。

「太公望どの、早く!」

「あぁ、わかってる!!」

 それももう、今となっては判然としないのだが。



 テン国昆明。四時如春、或いは春城。そう呼ばれるこの国は、噂に違わぬ常春の地であった。

「まさにこの世の楽園といった風情ですね」

「そうだのう……」

 通りを居並ぶ露店。その店主も立ち寄る人々も穏やかで、緩やかな時が流れている。しかしこれが戦の時となると勇猛さを発揮するというのだから、人とは思いもがけぬものだ。
 ……そう言った名前こそが常のたおやかな様子を裏切り、戦場では婦好の如き活躍を見せるのだけれど。
 とは思ったものの、太公望が口にすることはなかった。彼女を揶揄うのは楽しいが、それで生じる違和感ーー恥ずかしげに伏せられた瞳に惹きつけられる意識だとか、途端に高鳴る心臓だとかーーを思えば、堪えるのが定石と言えた。

「太公望どの、宝珠梨……ですって。確かこの国の特産でしたよね」

 太公望の心などいざ知らず。果物の並ぶ露店を覗いた名前は太公望を振り仰ぎ、小首を傾げた。そうするとさらりとした髪が頬に流れ、少女の清らかさが露になる。
 白く滑らかな頬。穢れを知らぬ清純な膚。そうしたものから目を逸らし、太公望は肩を竦めた。

「あぁ、なんでも健康にもいいとか。まぁわしらには関係のない話だがな」

「ですが美味しいのは間違いないでしょう?幾つか買っていきましょうよ」

「うむ。それなら異論はない」

 大仰に頷く。と、名前は「なんですかその言い方」と笑みを溢した。淑やかに、口許を隠して。
 その流れるような所作を美しいと思うのに。なのに太公望は惜しいとも思っていた。その笑顔を何物にも遮られずに見てみたい。ーーなんてのは、かつての旅では思いもしなかったというのに。

「はい、太公望どの」

 いつの間にか。
 買い物を終えていた名前は鉄削を懐から取り出すと、慣れた手つきで宝珠梨をするりするりと薄皮を剥いていく。そうして一口大に切り出した果実は白く、芳しい香りが切り口から立ち上っていた。
 けれど太公望の目を奪ったのはそこから滴る蜜ーー名前の穢れない膚に伝う甘やかな汁であった。
 空腹を呼び起こす匂い。陽に照らされ、とろりと光る蜜。太公望は誘われるように顔を近づけ、そうしてーー

「……っ」

 さくりと歯を立ててから。口内にその爽やかな味が広がるよりは早く。太公望はハッとした。
 自分がしたこと。意識の外側で起きた行動。そこに思い至り、見開かれた名前の目と視線を合わせーー内心いたく動揺した。
 けれどそれを悟られてはならない。それがお互いのためであると信じて疑わない太公望は、素知らぬ顔を作り上げ、笑った。

「おお、確かに美味い!ほれ、名前も」

「え、ええ……」

 なんの下心もないと。特別な理由などないのだと。そう大袈裟なほど言外に語る太公望に、名前は戸惑った風だった。
 けれど彼女は太公望の言うことに弱かったし、進んで人の領域に踏み入れる質ではなかった。だから押し切られる形で、進められるがままに。自身も果実を含み、そうしてふと顔を綻ばせた。

「本当。とても美味しいですね。甘いのに爽やかで……」

「だろう?」

 意識を宝珠梨に向ける名前に、太公望はそっと息を吐く。もちろん心の中で。
 近頃はこんなことばかりだ。名前の一挙手一投足。彼女自身は意識していないそれらに心を揺さぶられる日々。心臓に悪いし、らしくないと自分でも嫌になるほどであったけれど。

「やっぱり旅に出てよかったです。これもすべて太公望どののお陰ですね」

「……褒めても何も出んぞ?」

「あら残念」

 微笑む名前を見ると胸が温かくなる。甘やかな痛みが同時に巻き起こるというのに。それでもなお目が離せない。ーー離したくない。そう、思ってしまうから。

「……重症だな」

「え?」

「いや、なんでもない」

 目を瞬かせる名前を煙に巻き、太公望は頭を巡らす。彼女の笑顔。それを見るために、さてこの後はどうしようかと密かに計画を立てる。
 それすらも楽しく感じてしまうから、と太公望は思う。
 だからきっと、自分からこの手を離すことはできない。どれほどの痛みが生まれようと。泣きたくなることがあろうと。きっと、この穏やかな日々を自分から手離す日は来ないだろう。
 ならばせめてその日までは。彼女が太公望を必要としなくなるその日までは、この笑顔を守り続けよう。
 それが役目を終えた太公望にとっての新たな目的であり、切なる願いでもあった。