テン国1


 テン国昆明。再び訪れた花の都は四月中頃ということもあり、以前にも増して春の盛りといった様相を見せていた。
 ツツジやツバキの赤や桃、白。色とりどりの花開く町は常春の都の名に相応しい。
 通りを吹き抜ける甘く爽やかな風。胸一杯に吸い込み、名前はほうと感嘆の息を吐いた。

「相変わらず素晴らしいところですね、太公望さん。景色は美しく、町も清潔に整えられていて……」

「そうだのう……」

 呟く少女の横顔。長い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳。絶景にきらきらと輝く姿は、錦上に花を添えるといった様子で。

「だがおぬしの方が……、」

「わたし?」

「……いや、なんでもない」

 ーーきれいだ、と。
 口走りかけて、太公望は口を噤む。内心慌てて。しかしそれを表には出さず。なんでもないと緩く首を振り、怪訝そうな眼差しを煙に巻いたのだった。



 一年の殆どを温暖な気候が支配するテン国。お陰で生花や果物はもちろん、お茶の葉の名産地としても知られていた。暖かいということはそれだけ葉を摘む期間も長いということなのだから当然だが、しかしその種類の多さには初見ではないというのに驚かされる。

「沱茶、プーアル茶、雲南毛峰、……うーん、目移りしてしまいますね」

 旅のお供に、と露店を覗く名前であったが、その顔はひどく悩ましげだ。

「体内環境を整える……のもいいですが、風邪予防というのもなかなか……、しかしここはやはり好みの方を優先すべきか……、」

 呟く目は過ぎるほど真剣なもので。ここで一押しすればいいものを、店主の方も気迫に呑まれ、ただ事の成り行きを静観するばかりである。

「まったく……」

 それを後方で見守っていた太公望であったが、このままでは埒が明かない。
 長旅で嫌というほど思い知ったことのひとつであるが、名前は存外優柔不断なのだ。戦場ならばいざ知らず……というか、そういった時には八面六臂の働きを見せるのだが。こういった日常生活においては驚くほど不器用なのが彼女であった。

「あ、太公望さんはどれがお好みですか?やはり果実の……」

「いや、……悩むならばすべて買えばよいではないか」

 対して太公望はそういった細かいことを気にしない質であったから、悩む名前を差し置いてさっと勘定を済ませてしまった。

「ほれ、これで満足であろう?」

「い、いえいえ!満足というか過ぎたるというか……申し訳ないです」

 毎度、と明るい声に見送られ。露店を後にした太公望に名前は追い縋る。
 八の字を描く眉。言葉通りの表情に、太公望は可笑しくなる。
 仙道となったのにただの人間だった頃と同じように健康を気にかける名前も。路銀には十分な貯えがあるというのに相も変わらず節制を当たり前のように行う名前も。多くを望まない彼女が可笑しくーー愛おしかった。

「わかったわかった。次は手出しせんよ」

「うーん、それも困るような……。出来れば適度に止めていただきたいのですが」

「うむ、おぬしが玉細工やら工芸品やらに現を抜かしておったら止めてやろう」

 テン国は農業の面において大変優れている。が、それだけがこの国の豊かさの理由ではなかった。
 近隣に鉱物の産地があるというのもそのうちのひとつ。他国との交流の中で宝石類が流入するこの土地では同時に石を細工物として加工する技術も高められていったのだ。
 故に町のそこかしこで翠や蒼といった光が輝いていたのだけれど。

「そ、そんな分不相応なもの買いませんから!!」

 ご安心くださいと言う名前であったが、太公望としては同意しかねた。無論言葉にすることはなかったが。
 健康のための茶などよりは、娘らしく着飾る方が彼女の容貌には似合うと思うし、そうした姿を見てみたいとも思う。思うが、きっと彼女は固辞するだろう。

「難しいものだな……」

「えっ?」

「あぁいや、おぬしのことではない」

 何か仕出かしたかと顔を青くする名前に手を振り。しかし内心で太公望は頭を押さえていた。
 彼女の願いは叶えてやりたい。だが自分にも人らしい望みはあるらしく。
 ふたつを両立させるためにはどうしたらいいのかと、周の元軍師は平和な悩みに思考を巡らせるのだった。