兄弟子と喪失の朝


 ひどく寒い朝だった。吐く息は白く、指先から凍りつきそうなくらい寒かった。澄み渡る朝焼けが鋭利な刃物に見えるほどに冷え冷えとした朝だった。

「…………、」

 王の退いた禁城。その広場にはもうなんの痕跡も残っていなかった。ただ寒々とした空虚だけが広がっていた。城の外では紂王と武王が対峙しているだなんて嘘のように。空虚な静けさだけがそこにはあった。
 名前はそこでひとり立ち尽くしていた。息をしているのも無意識なほどに虚ろな目で。静まり返った広場を眺めていた。

「名前、」

「楊ゼンさま……」

 声をかけられ、視線が動く。ゆっくりと、脱け殻の瞳が楊ゼンを映した。それはただの硝子玉のようだった。無機質で、感情のない瞳だった。
 だから楊ゼンはその体を抱き締めた。かつて名前がしてくれたように。抱き締め、囁いた。

「落ち着いて、深呼吸をして」

 名前に必要なのは己の心を理解することだった。悲しみを理解し、受け入れること。そう促し、楊ゼンはその背を撫でた。
 名前は呆然としていた。けれどその声はちゃんと届いたらしく。楊ゼンの手に合わせて、震える息が洩れた。あぁ、と溜め息のように。

「わたし、わたし、は……」

「大丈夫、僕はここにいる。だからゆっくりでいいんだ。ちゃんと聞くから……」

「……っ、」

 名前、は。ちいさく息を呑んだ。かと思うと、頑是なく首を振る。

「違うんです」

 そうじゃない、と否定する声のまま、彼女は楊ゼンの胸を押しやった。
 それは力のないものであったけれど、距離は簡単に取ることができた。そしてそうしたのは名前であるのに、その事実に傷ついたような目をするのもまた彼女の方だった。

「わたしには、こんな優しくされる資格はない。慰めなんて、必要ないんです。だって、わたしは……」

 名前は喘ぐように息をした。黒い瞳は潤み、目尻から溢れ出した。それは氷が溶け出すように。決壊し、涙は頬を伝った。

「わたしは何も気づけなかった!友人だと、そう言っていたのに。彼はわたしのことを理解してくれていたのに。わたしは何も……何も、できなかった」

 痛ましい叫びが広場に響く。白々とした光に照らされる幾つもの涙。名前は嗚咽を溢し、項垂れ、頽れた。

「師匠のことは納得できたんです。わたしだってきっとそうするから……。でも彼のことは違う。わたしは何も気づけなかった。背中を押すことも止めることもできなかった。友達なのに、その苦しみの一片すら」

 何も知らなかったのだ、と。
 涙の滲む声は身を切るような鋭さを持っていた。名前はそれで自身を傷つけることでその心を守ろうとしていた。大切な友をーー天化を喪った責は自身にあると。そう定義することで、行き場のない悲しみをぶつけていた。
 けれどそれでは名前の心は持たない。今はそれが救いであっても、永遠に自身を傷つけ続けることになるだけだ。

「……それは違うよ、名前」

 だから楊ゼンは静かに言った。名前の望みを退け、自身が望むままに手を差し出した。それを彼女が望まないとしても。何より楊ゼンがそうしたいと思ったから。
 身勝手に救おうと。楊ゼンは膝をつき、名前の肩に手を置いた。
 そろそろと見上げる目。その凍えた頬に手を添え、笑みかける。

「友人だったから、天化くんもそれを望んだんだ。君とは最後まで普通の……ごく当たり前の日常を送りたいって」

 そんなものは楊ゼンの想像に過ぎない。本当のところ彼がどう思っていたかなんて、今ではもう誰にも知る由はないのだ。
 けれど彼ならばそうするだろうと思った。友人思いの彼ならば。友が悲しみ嘆くのを望みはしないと思ったからーー名前を否定した。

「仮に君ならどうする?君が彼の立場だったら……」

「わたしが、天化どのだったら……」

「……同じようにするだろう?大切な友のために」

 言うと、名前の目から新たな涙が溢れた。盛り上がり、はらはらと流れていく雫。それは雪のように落ち、宙に溶けて消えた。「勝手だわ」そう呟く声と同じ儚さで。

「それでもわたしは知りたかった。他でもないわたし自身のために。一緒に悩んでほしかった」

「あぁ、」

「……けど、彼はもういない。いないのよね……」

 喪失感。声に、瞳に滲ませ、名前は目を伏せた。
 その体を楊ゼンはもう一度抱き寄せた。そうしてももう名前が拒絶することはなかった。啜り泣きながら、けれど確かにその手は楊ゼンの背に回っていた。

「楊ゼンさまは、」

「ん?」

「他に隠し事はないんですよね?怪我とか辛いこととか、そういうことはもうないんですよね?」

 名前は訊ねた。それは先刻よりは落ち着いた声音であったけれど、どこか怯えの見え隠れするものだった。
 彼女は恐れているのだ。楊ゼンまでもが喪われるのではないか、と。師と友を亡くしたばかりの彼女は、震える指で楊ゼンに縋っていた。

「……あぁ、大丈夫だよ」

 本当は。まだ彼女に話していないことが幾つもある。それは今後の推測であったり、楊ゼン自身の感情であったりした。
 けれどそれらを今明らかにするつもりはなかったし、少なくとも彼女の危惧するものが心に巣食っているわけではないのだから……と楊ゼンは嘯いたのだったが。

「……嘘。今の間は嘘つき特有のものですよ」

 名前は楊ゼンが思う以上に察しがよかった。或いは相手が楊ゼンだから、であろうか。
 簡単に見抜かれ、楊ゼンは笑う。それを見上げる名前の双眸。不満げに睨めつける目には、しかし先程の恐ろしいまでの空虚は見受けられない。

「どうして嘘つくんですか。そんなにわたしは頼りないですか。そりゃあ……楊ゼンさまに比べたらわたしなんてちっぽけなものでしょうけど」

「うーん、そういうんじゃないんだけど」

 弱ったなと楊ゼンは頭を掻く。けれどそこには相変わらずの笑みが浮かんでいた。
 それは意識したものじゃない。ただ自然と……名前と共にいるだけで生まれてくるものだった。
 それがいかに尊いものか。楊ゼンにとってどれほどの救いだったのか。そのすべてを名前が理解する日はきっと来ないだろう。

「安心して。いつかは……そうだな、この戦いが終わったらひとつは打ち明けてあげるから」

「……本当ですか?しらばっくれてもダメですよ、わたしちゃんと覚えてますからね」

「ははっ、……望むところさ」

 けれど少しは思い知ってほしい。かつて楊ゼンを悩ませたもの。今もまだ時折大人げなく振る舞ってしまう理由。その断片だけでも、名前には知っておいてほしかった。
 ーーそれを聞かされた時、名前はどんな顔をするだろうか。
 驚くだろうか。……驚くだろうな。たぶん思考が追いつくのにも時間はかかるだろう。そもそもそういった面の情緒は発達しているのだろうか。その感情を教えてやるだけで相当時間がかかるかもしれない。
 そんな未来を想像し、楊ゼンは悪戯っぽく微笑んだ。決してその手を離すことなく。手のかかる妹弟子に笑いかけるのだった。