妹弟子、宣戦布告する


 崑崙山2ーー球形の空飛ぶ船は、広大な海の上空を静かに走っていた。
 とは言っても密やかなのはその駆動音だけで、中にいる人々の騒々しさだけで十分すぎるほどに賑やかだったのだが。

「……はっ!」

 そんな崑崙山2の天井部分、まろやかな円を描く不安定な足場に名前はいた。
 先刻まではナタクや天祥と共に剣を振るっていた名前であったが、今周りに人影はない。静寂をひとり切り裂いて、そうしてからふと足を止めた。

「……太公望師叔、」

「相変わらず察しがいいのう」

 名前の見つめる先、そこには今まさに天井へと這い出ようとする太公望の姿があった。
 彼はその下にある回廊、そこに作られた窓辺からよじ登って来ているのだった。そんなことせずとも、四不象に乗れば容易に辿り着けたろうに。
 彼は単身名前の前に姿を現すと、「よっ」と掛け声を上げて名前の前に立った。

「おぬし一人か。精が出るのう」

「そりゃあ……決戦前ですから」

 名前は師から受け継いだ剣を握り締め、硬い表情のまま言った。
 その目には決意があった。強い意志の光が息づいていた。封神計画。その中で多大な犠牲を払い、信念の元散っていった無数の命を見てきたからこその光が。
 ーーこれで最後にしなければならない。
 人間界も仙人界も。あるべき姿へと還らなくてはならないのだ。
 そう、名前は真剣に思っているというのに。

「しかしこうも気を張っていては保たんだろう。これでは肝心な時に戦えなくなるぞ?」

「うっ……」 

 太公望は呆れたように言い、どかりと腰を下ろした。その上、名前にまで同じようにしろと促してくる。
 正論に言葉を詰まらせた名前に反論の余地はない。彼の言うことは尤もで、軍師である彼に逆らう術など思いつきもしなかった。
 けれど心とは不自由なもので。頭では理解していても、納得しきることまではできなかった。彼が正しければ正しいほど。
 それでも名前は太公望に従った。渋々といった顔で。

「師叔が言うと説得力がありますよね……」

「そりゃあわしは主人公だからな」

「いえ、そうではなく……ここぞという時以外だらけきっているから、」

 胸を張る太公望に。名前は偽ることも取り繕うこともなく正直に否定する。
 途端、彼はガクリと肩を落とし、それから憤慨した。

「おぬしはほんっとうに楊ゼン以外には辛辣だな……。だがわしのは策であって、そうすることで敵の油断を引き出して……」

 つらつらと。太公望は語っているが、その殆どが名前の耳には入っていなかった。
 剣を振るう手を止め、景色に目を馳せる。すると、それだけで意識が集中してしまう。修行をしている間ならば忘れていられたことに。ーー今は遠く離れた地にいる楊ゼンのことに。

「……そんなに気になるなら楊ゼンと行けばよかったろうに」

 まるで心を読んだみたいに。
 その名を口にした彼に、名前は目を見開く。けれど同時に納得もしていた。太公望、彼になら見抜かれてしまうのも仕方のないことだと。何せ彼はあの楊ゼンが認めた人で、驚くほど周りのことをよく見ている人だったから。

「……それでは、これまでと変わりませんから」

 だからか。名前の口は言うつもりのなかった言葉まで紡ぎ出していた。けれど不思議と焦りはなく、むしろ凪いだ心のまま名前は太公望を見つめ返した。

「わたしはずっと楊ゼンさまに付き従ってきた。勿論今でもあの方の成すことに疑いなどありません。でも今はそれだけじゃなく、わたしはもっと……」

 ーーどうしたいの、だろうか。
 目標は定まっている。だがそれを表すための適切な語が思い浮かばなかった。故に名前は眉をひそめ、視線をさ迷わせ……それからまた太公望に目を据えた。
 明確な言葉はなかった。ただ漠然とした想いだけがあって、そのために名前は楊ゼンと別れこの船に乗った。
 だが、今。太公望を。その揺るぎのない目を見つめることで理解した。本当の願いを。叶えたい夢を。

「わたし、あなたを越えたい。あなたのように強く、あなたのように真っ直ぐに。……楊ゼンさまに近づきたい」

 声は、広々とした青空に響いた。陽光の輝きを浴びて、その言葉の輪郭すらも煌めきを帯びていた。涼やかな風が心にまで吹き込んだ。目の前に垂れ籠めていた霧が晴れ、意識が明瞭になっていくのがわかった。

「そのためには、楊ゼンさまに寄り掛かったままじゃいけない。自分の足で歩いて……選択していかないと」

 言い終え、名前はどこかすっきりとした気持ちで晴れやかに笑った。
 楊ゼンが認めた人。軍師太公望。であるからこそ、名前は彼を尊敬していたし、同時に妬ましくも思っていた。羨ましくて、妬ましい。子供じみた憧憬は長い月日が経った今も色褪せることなく名前の中に沈んでいた。
 そしてそれは幾つも戦いを潜り抜けたことでより鮮やかに色づいた。名前は名前自身の心でたったひとつのことを願った。
 ーーかつて自分がそうしてもらったように、今度はわたしが楊ゼンさまの手を引きたい。太公望師叔のように頼ってもらいたいと、そう願った。

「……そういうのはわしじゃなく本人に言うべきだろう」

 そして太公望は。彼は困ったように頬を掻いていた。その眉尻は下がり、目には困惑の色が滲んでいる。……無理もない。彼からすればいきなりライバル宣言をされたようなものなのだから。
 しかし名前はそれを理解していながら、そっと首を横に振った。

「いいえ、太公望師叔。わたしはあなたに言いたかった」

 真っ直ぐに。決して視線は逸らさず、揺らがず。名前は太公望を見据えた。見据え、そして。

「絶対、負けませんから」

 いつか楊ゼンに宣言したように。今は太公望に向けて、名前は言い放った。そうして引き結ばれた唇は固く、意志の強さを窺わせた。
 太公望にもそれは伝わったのだろう。

「あぁ……また面倒な」

 呆れたような、途方に暮れたような。……或いは両方か。疲れを感じさせる深い溜め息を太公望は吐き、「やれやれ」と両手を挙げた。

「安心せい。おぬしは十分に頼られているぞ」

「そんなことは……」

「と、わしが言ったところでおぬしは信じないのだろう?」

 言い当てられ。今度は名前の方が困惑し、曖昧な首肯をする。「ええ、まぁ……、そうですけど」それがどうしたというのだろう?
 疑問符を浮かべる名前に、けれど太公望が答えをくれることはなかった。

「……では、わしはこれでお暇するか」

「え、もうですか?」

 立ち上がった彼を振り仰ぐ。いつもならさしたる身長差はないはず。なのに今は名前が座っているせいで太陽が隠され、彼の顔は逆光になっていた。お陰で太公望がどんな表情をしているのかさえ名前にはとんとわからない。
 ただ「なんだ、もっとわしと居たかったのか」という揶揄いの声だけは耳に落ちた。

「そうではなく、わたしはまだ話が終わっていないと……」

 珍しく追い縋る名前に、太公望は笑う。好好爺然とした雰囲気で。笑い、それから名前にひとつの助言を残していった。

「先程わしが言ったこと……気になるのなら楊ゼン本人に聞くといい。今度こそちゃんとした答えが貰えるはずだ」

 それだけを言い残し、太公望は去っていった。来た時と同様の手口を使って。
 残されたのは名前ひとり。広い床の上。座り込む名前の頭では、太公望から言われた言葉が渦を巻いていた。

「少しは頼りにしてもらえてますか、なんて……」

 訊ねてみろと太公望は言ったけれど、それはなかなか難しいことのように思われた。
 だが確かめたいという気持ちも心中にはあって。相反する感情に挟まれた名前はひとり頭を抱えるのだった。