妹弟子、師に背中を押される


 すべての黒幕、女カ。彼女との戦いを終えた仙人界は無事平穏を取り戻した。
 ーーそのはず、だったのだけれど。

『どうしたんだい、名前。難しい顔をして……』

「玉鼎さま……」

 仙人界でも人間界でもない場所。ふたつの世界を繋ぐワープゾーンの中は、現在神々の暮らす地になっていた。
 その一柱となった玉鼎真人、名前の師は不意の来訪にも気分を害した様子はない。むしろ嬉しいと目許に滲ませて名前を歓待してくれた。
 それでも、憂いは除かれない。

「お師匠さま、私はどうしたら強くなれるのでしょう……」

 溢れるのは溜め息。榻に座した二人。その間にある茶器に浮かぶは思わしげな顔。不安。憂慮。そうしたものに彩られた名前の顔は暗く、常の明るさが嘘のようだった。
 故に玉鼎真人も目を瞬かせる。その表情に、言葉に。驚きを隠さず、「何かあったのかい」と訊ねた。
 その声音の温かさ。柔らかさ。親代わりでもあった人の優しい声に、自然名前の口は緩む。

「わたし、楊ゼンさまのお役に立ちたくて。でもあの方はなんだって平気な顔をなさるから、わたしにはどうしたらいいのか……」

 ぽつりぽつりと。話す言葉は要領をえない。纏まらぬ思考。定まらぬ目標。けれど想いだけはいつまでも変わらず胸にある。
 ーー彼に頼られる自分になりたい。
 それはかつての戦いの最中、強く感じるようになった想いだった。ただ憧れるだけでなく、その背を追うだけでなく。かの軍師のように並び立てたら、と。いつしか願うようになっていた。
 それは今、穏やかな時の中にあっても変わりない。

『それで強くなりたいと?』

「ええ、だってそうするのが一番わかりやすいでしょう?」

『……お前は、十分強くなったよ』

 微笑ましげに名前を見つめる玉鼎真人。その言葉、眼差しに喜びを覚えたのも束の間のこと。
 彼の口が『確かに楊ゼンには及ばないが、』と紡いだのを聞くや否や、名前はがくりと肩を落とした。

「わかってますけど、それじゃ意味ないんですよ……」

 項垂れ、深々と溜め息を吐く。
 背負う影は重く、暗く。穏やかなこの地には相応しくない。辺りに満ちる清浄なる空気すらともすると呑まれてしまいそうなほどだ。
 その姿を見つめ、玉鼎真人は『ふむ』と一考する。弟子のためーー名前と、そして楊ゼンのことを想いーーそうした後に彼が至った答え。

『楊ゼンに聞いてみたらどうだ?』

 それは至極単純なものだった。明解で、それ故に名前にとってはひどく困難なもの。

「……それ、太公望師叔にも言われました」

 思い出すのはかつての記憶。ほんの二月ほど前、最後の戦いへと向かう最中、軍師から与えられた助言だった。
 だというのに名前は未だ成しえていなかった。戦いも終わり、後には緩やかな時が齎されたにも関わらず。

「でもこう……時を見計らっていたら、」

『機を逸した、と』

「……はい。どう切り出したものかと思い続けてたら……ずるずると」

 決まりの悪さから視線を合わせられない。言い訳がましく言葉を濁すしかできない。
 そんな名前の心中を見透かす師匠は、残酷なまでにずばりと切り込んだ。言い当てられた名前はもう体を縮こまらせるばかり。らしくない……とは自覚しているが、ことこの一件に関してだけはどうにも足が竦んでしまう。躊躇ってしまう。

「……はぁ。自分が情けなくて仕方がないです」

 だがそれしか方法がない。名前の懊悩、その解決策は。
 それでも溜め息が溢れるのは止められない。茶器の中の小さな世界。浮かぶ顔が波立つ、渦を巻く。そそめく様はさながら名前の心、そのものだった。

『答えは出ているようだな。ならばやはり私から言うべきことはないようだ』

 俯きがちな名前の頭に温もりがひとつ。その手つき、柔らかな感触はいっそ色鮮やかなまで。かつても今も変わらぬ優しさに、驚き顔を上げた名前も目を細める。

『だが私はいつもお前たちを想っているよ。だからいつでも相談に来なさい』

「お師匠さま……!」

 それは光だった。玉鼎真人の後ろから目映い光が放たれている。無論そんなものは錯覚で、事実とは異なるのだが、名前にとっては紛れもない真実であった。

「ありがとうございます。……わたし、頑張りますね」

 誓いは師にだけではない。何より己に。誓い、ようやく名前は踏み出す勇気を得た。
 気恥ずかしさは変わらずある。彼を困らせてしまうのではという憂慮も。しかし鑪を踏んでいるばかりでは名前はどこにも行けない。変わらなければならないのだ。名前だって、彼と同じように。その隣で生きていきたいと願うからこそ。