春の嵐


 お昼過ぎ、名前は食後のクロスタータを切り分けていた。
 漂う甘酸っぱい香り。イチゴのジャムに食欲を誘われ、ナランチャは「早く早く」と名前を急き立てた。

「そんなに急がなくったって誰も取らないわよ」

 名前たちは自宅にいた。他に人影はない。昼食が終わったらいつものリストランテで落ち合おう。そうブチャラティは言ったのだ。
 笑う名前に、ナランチャは口を尖らせる。「そんなのわかんないだろ?」いつ何時どんなことが起こるかわからないのだから……と言う彼は、過去食事に困った経験があるらしい。
 ナランチャの過去を名前はあまり知らない。彼は語りたがらなかったし、彼の先輩たち……フーゴやブチャラティに訊ねるのも不義理だと思ったからだ。それに名前もまた過去を隠している。その素性から、かつて得た尊い経験のことも。
 だから名前は「そうね」と微笑んだ。彼のことを否定せず。静かに微笑み、その前に切り分けたクロスタータを置いた。

「さ、召し上がれ」

「ありがとう名前ッ!!」

 食事の前の祈り。名前に促され早口で唱えてから、ナランチャはフォークを手に取った。
 クロスタータは一般的な家庭料理だ。ビスケット生地にジャムを塗って包んで焼いたタルト。どこでも手製のジャムが作り置きされているこの国ではありふれたお菓子だった。そのため美味しく作るのも難しく、名前もまた作り方を覚えるのに苦労したものだ。

「やっぱりおいしいな、名前のクロスタータ!」

「ふふっ、ありがと」

 だからこそ彼に褒められ、嬉しくなる。名前は深く笑み、それから彼と揃いのフォークを手に取った。

「たくさん食べて元気出さなくっちゃね。この後フーゴに勉強教えてもらうんでしょう?」

 ブチャラティから『新入りが入る』という連絡が入ったのはつい先程のことだ。
 いつもの場所で落ち合おう。彼はそう言っていた。 いつもの場所。名前の勤め先でもあるリストランテで彼は新入りを紹介するつもりらしかった。
 元より名前にもナランチャにも特別な予定はなく。ならばその新入りを来るまでは、博識なフーゴを先生にしての勉強会の時間に充てようと考えた。フーゴに了承は取っていないが、それもまぁいつものことだからきっと彼はやれやれと言いながらも断りはしないだろう。
 そんな勉強会を始めたのはナランチャの方だった。彼が自分からフーゴに頼んで勉強を教わることになったのだ。

「ん〜……、でもなァ……」

 だというのに。
 ナランチャは歯切れ悪く唸ると、口を尖らせた。
 それはなんだか懐かしい光景だった。名前がまだ何も知らなかった子供の頃。生とか死とか、そんなものとは無縁だった頃に見慣れていた景色。友人たちに囲まれて笑い合っていた学生時代を思い起こさせた。
 だから名前はその時のような気安さでーーけれどその時とは違う大人びた顔つきで彼の手を取った。

「気が進まないのはわかるわ。誰だって勉強なんて好き好んでやらないものよ」

 でもね、と名前は言葉を続ける。

「あなたは自分からフーゴに頼んだんでしょう?フーゴが言ってたわ。そういうところは凄いって」

「え、マジ!?フーゴが!!?」

「ええ、確かに」

 途端に。憂鬱に曇っていた眼が光を宿す。“あの”フーゴが!といった具合に。
 フーゴはナランチャよりも歳はひとつ下だ。けれどギャングの世界に足を踏み入れたのはフーゴの方が先だったし、頭のよさといった点でもまた彼の方が勝っていた。だからか、ナランチャとしてはいまいち年下という感覚がないらしい。有り体に言えば“舐められてる”ということだ。
 だから名前の言葉に驚いた風だったし、大袈裟なまでに食いついてみせた。無論そこに嘘偽りはなく。心底嬉しいといった様子でにやける口許を押さえていた。

「そういやあさ、新人って今日来るんだろ?どんなヤツかなぁ〜……」

 タルト生地を頬張りながら、ナランチャは名も知らぬ新たな仲間に思いを馳せる。その目には好奇心が色濃く表れていた。

「さぁ?ブチャラティからは何も聞いてないから……」

 けれど生憎と。名前は彼の期待する答えを持ち合わせていなかった。
 首を傾げ、名前は記憶を辿る。ブチャラティからの伝言。しかしその中には件の新入りに関する情報は含まれていなかった、ように思う。『名前は?』と名前が聞いてみても答えてくれなかったのだ。
 ただ。『会えばわかる』それだけを言い張る彼の声色は、何故だかどこか陽気な……湧き出るような清々しさを纏っていた。

「年上かなぁ、それとも年下?」

「だったらあなたが色々と教えてあげなきゃね、先輩なんだもの」

「先輩かぁ……いい響きだな」

 うっとりと目を細めるナランチャ。名前には彼の空想が手に取るようにわかった。空想、或いは妄想が。
 たぶん彼はこう思っている。『できるなら年下がいいなぁ。それも素直で先輩を敬える……とびきり面白いヤツがいいなぁ』と。

「でも仲良くやれるかはソイツ次第だなぁ……。いけすかねぇ〜チンピラみたいなヤツだったら絶対ムリ!」

 ゾッとする!とナランチャは自分の両腕を擦った。鳥肌が立つ。そう言った通りに彼は震え上がる。「女子供をいたぶるのが楽しいなんて信じらんねェ〜……」その言葉は先日亡くなった男へと向けられたものだった。
 名前もナランチャも決して綺麗な世界では生きていない。が、だからといって信念がないわけでもない。故に今、ブチャラティの元で働いているのだし、それ以外に行き場所もなかった。

「でもそれならそれで教えがいがあるじゃない」

 名前は食後のコーヒーをーーリキュール入りのカフェ・コレットだーーを飲み干して、笑いながら片目を瞑った。

「……ま、それもそっかぁ」

 これだけで彼は納得し、それ以上思いを巡らせることはなかった。
 どうせもうじきに正解は与えられるのだ。あれこれ考えたところでどうしようもないし、そもそもブチャラティが受け入れると言っているのだからーーその経緯がぼかされたのには納得がいかなくともーー悪い人ではないのだろう。
 少なくとも名前はそう思っていたし、ナランチャもまた今日が特別な日になる予感はあれど、その後に待ち受けるものなど想像だにしていなかった。