既視感の正体


 ナポリの街を照らすのは暖かな春の日差し。プリマヴェーラの陽気な風は柔らかに名前の頬を撫でていった。

「もうそろそろかしら……」

 名前は陽光に目を細め、それから石畳の道の先に視線を走らせた。行き交う人々。その中から顔馴染みを探し出そうと。
 そうしているうちに、見知った黒髪と特徴的な白が視界に入ってきた。

「ブチャラティ!」

「あぁ、名前か」

 片手を挙げ合図を送る名前に。ブチャラティはふと口元を緩めた。ほっとしたような、思わずといったような、そんな具合で。寡黙な彼にしては珍しいことに、わかりやすく表情を和らげたのだった。
 それを不思議に思わなかったといえば嘘になる。どうかしたのかしら?内心一番に浮かんだのはそんな疑問だった。
 けれど名前は口にしなかった。この世界では沈黙が大きな意味を持つからだ。かつてどこかのマフィアが言ったみたいに。考えを言葉にするのは好ましくないことだった。
 だから名前は口を噤んだ。変わりに浮かべたのは気さくな笑み。何も知らない少女の顔で名前は小首を傾げた。

「いったいどこに寄り道してたのかしら。お陰で私の首はすっかり伸びきっちゃったわ」

「悪いな。だがわざわざ外で待つこともなかったろう」

 軽口を叩くと、ブチャラティは微笑みながら名前の頭を撫でた。それは妹とか近所の子供とか、そうしたものにするような手つきだった。それを裏づけるように、ブチャラティが続けた言葉は暗に名前を気にかけるものである。

「それすら待ちきれないくらい気になってるってことよ」

 言いながら、名前はそっと視線を流した。ブチャラティの後方、斜め後ろに静かに控える少年へと。
 少年はいたく落ち着いた様子だった。起伏に乏しい表情と凪いだ瞳。少年はただそこに在った。
 けれど、それだけではないのだと名前は直感的に思う。
 ーー探られている。
 奥底まで見透かそうとする眼差し。肌に張りつく視線。そのピリピリとした感覚だけはあった。少年が感情を露にすることはついぞなかったが。
 故にこそ恐ろしい。底知れないものを名前は感じずにはいられなかった。
 だが敵意はない。害意も、また。少年から向けられるのは純粋と言ってもいいほどの関心だった。

「ブチャラティ、……彼が?」

「ん?あぁ、そうだ」

 探り合いに。最初に根を上げたのは名前の方だった。
 名前は窺い見るのを諦め、親愛なる上司へと話を振った。
 ブチャラティは聡く、賢明な男だ。けれどどこか抜けたところもある彼は、名前たちの無言のやり取りになんの疑問も抱かなかったらしい。信頼されているのか、それとも本当に気づかれなかっただけだろうか。
 真実を明かさぬままに、ブチャラティは「先程話した新入りだ」と言って、少年を顎で指し示した。

「名をジョルノ・ジョバァーナという」

「ジョルノ・ジョバァーナです、はじめまして」

 長らくの沈黙を破り。よろしくお願いしますと頭を下げる少年の声にはまだ幼さが残っていた。その礼儀正しい所作に好感を抱かない人間がいるだろうか?
 マフィアらしくない少年であった。けれど同時にその冷静さはひどくマフィアらしいものでもあった。

「私は名前よ。こちらこそよろしく、ジョルノ」

 若さに見合わぬ成熟した精神。ならず者を前にしての堂々とした態度。
 末恐ろしい少年だーー
 微笑の裏でそう思った名前であったけれど。

「……?」

「どうした、名前」

「あぁ、いえ、なんでも」

 思考を掠めた既視感。記憶の水底が泡立つ感覚に思わず眉根を寄せる。ほんの微かに。しかし今度ばかりは表情の変化をブチャラティに気づかれてしまう。
 頭でも痛むのか、と。気遣いを見せる彼に慌てて笑みを取り繕う。けれど思考は目まぐるしく渦を巻いていた。
 既視感。そう、既視感だ。フランス語でしか言い表せないあの感覚。実際は経験したことがないのに既に見知っているような錯覚。
 名前が彼、ジョルノ・ジョバァーナと名乗り合ったのは今が初めてのことだ。それに間違いはない。ないが、知っている。
 ーー何を?
 ーーその、眼差しを。

「……ぁっ、」

 そうだ、名前は知っている。年齢に不釣り合いな成熟した精神を。それを持った男を。ーー今は遠く隔たってしまった、幼馴染みを。

「……やっぱり調子が悪いんじゃないか?」

「い、いいえ、平気よ。もう大丈夫」

 再度。身を案じ、顔を覗き込むブチャラティに申し訳なく思いながら、名前は首を振った。
 その言葉に嘘はない。だってもう理由はわかったのだから。
 名前は今度こそ本当に笑顔を浮かべ、二人を促した。

「ごめんなさい、時間を取らせてしまったわね。さ、中に入って。みんな待ってるわ」

 リストランテの扉を開け。軽やかに響く鈴の音を背景に、名前はその手を店内へと差し向けた。

「あなたたちはいつもここに?」

 仲間たちが待つ専用の個室へと向かう道すがら。ほんの僅かな時間であったけれど、それさえも惜しいとばかりにジョルノは口を開いた。
 その目の向かう先はブチャラティではなく、他でもない名前で。彼が会話の糸口を探っているのだと察し、名前は笑みを深めた。

「他にもよく集まる店はあるけど、近頃はここが多いわね。私が働いてるところでもあるから何かと融通が利くし」

「そうですか」

 聞いたのは彼であるのに、その声にはさしたる関心はないようだった。上滑りする言葉。視線。それは彼の意識が他に向いていることの証で、けれど名前が気分を害することはなかった。

「……大丈夫よ」

「え?」

「ブチャラティから何を聞いているかは知らないけど。でもあんまり緊張することはないわ。そりゃあちょっと……いえ、だいぶ?クセはあるけど……でも悪い人たちじゃないから」

 微笑む名前に。目を瞬かせるジョルノの顔は年相応のもののように見える。気づかぬ内に、思わずといった風で零れ落ちる声も少年らしいものだ。
 だから名前は年下の少年を安心させようと、殊更に優しい声音で語りかけた。平静なように見えるが、彼だってまだ子供なのだ。初めて対面する、しかもこれから仲間となるマフィアたちに身構えてしまうのは無理もない。かくいう名前だって、初対面の時は今では考えられぬほど緊張してしまっていたのだから。
 それに何より、もう名前の中には少年への親近感が芽生えていた。ジョルノ・ジョバァーナ。彼がどんな人生を歩んで、なぜこの道を選択したのか。その一片ですら名前は知らない。
 知らないけれど、その眼差しには覚えがある。気高く強い、信念に満ちた眼差しには。ーー懐かしいものを感じずにはいられなかったから。

「……はい、ありがとうございます」

 仄かな微笑を覗かせる少年に、名前は親しみを込めて答えた。
 その頃仲間たちが騒々しいやり取りをしていることなどちらりとも予感せずに。