赤井秀一との最期

 ――弾丸が走る。
 それは空を裂く音で理解できた。一発、二発。真っ直ぐ伸びる銃弾。名前は軌道を読み、一瞬はやく回避する。舌打ち。すかさず引き金を引かれた。三発目。それは名前の頬を掠める。でもそれだけ。その時にはもう名前は男の首を裂いていた。ホースを切ったみたいに吹き出る血。崩れ落ちる体。それを最後まで見届けることなく名前は駆けた。
 組織は崩壊する。それは最早名前が何をしてももう止められないところまで来ていた。気づいた時には既に遅く。組織に潜入したスパイや裏切りや外部からの干渉によって追い詰められていた。
 この研究施設も直に陥落するだろう。名前は静かな頭で考える。名前がここを統括する男に命じられたのは敵の始末。だがその間に別の部隊が施設に侵入していた。今名前は男が籠城していたはずの部屋に向かっているけれど、内心ではもう手遅れだと分かっていた。吹きさらしの天井。瓦礫となった壁。施設は原型を留めていなかった。それでも駆けるのは、名前が人ではないからだろう。
 角を曲がり、そのまま進もうとしかけて、名前は斜め後ろに飛び退いた。一瞬あと。さっきまでいた場所を銃弾が駆け抜ける。「……驚いたな」通路の先に立つ男が口笛を吹く。

「きっと君が来るだろうと構えていたんだが」

 とんだ計算違いをした。見誤っていたよ。名前に名を与えた裏切り者はまた銃を構える。その姿は組織を抜ける前と全く変わりない。名前に気まぐれな優しさを注いだ、あの時のまま。

「悪いが逃すつもりはない」

 殺意が満ちる。しかし名前の顔には笑みがあった。……それでこそだ。それでこそ赤井秀一だ。そう思った。
 だから。

「あなたを殺す、それだけは譲れない」

 名前は地を蹴った。

「……本当に、驚いた」

 君がこれほど力をつけているとは。そう言って、赤井は瓦礫にもたれ掛かった。そしてそのままずるずると座り込む。力なく投げ出された腕。それでも左手は銃を離さない。
 それを笑う余裕は名前になかった。彼がそうするより先に倒れていたからだ。赤井のすぐ横で、名前は空を仰いだ。丸く空いた天井からは青空が見えた。「だって、ズルをしてるもの」なのに、赤井には勝てなかった。彼を殺すために生きてきたのに。

「薬を打ってるの。詳しくは知らないけど、強くなれるって言うから」

 代償は命だった。赤井に撃たれなくとも、終わりは近かった。
 赤井は「そうか」と言った。そうか、君はそこまで俺を憎んでたんだな。自分のことなのにどうでもよさそうに彼は言った。その腹を赤く染めようと、どうだっていいと言わんばかりだった。それどころかすまないとさえ口にした。
 それに無性に腹が立って。名前は赤井を睨んだ。「別にあなたのためじゃない」この道を選んだのは、名前自身だ。そんな他人の選択まで背負ってほしくない。この痛みは名前だけのもの。誰にだって渡しはしない。だって、名前は。

「人間になりたかったの」

 赤井が名前を見る。わけが分からない。そんな表情で。だから名前は眉をひそめた。「覚えてないの」あなたが言ったのに。

「どうして組織に尽くすのかって、聞いたのはあなたなのに」

「あぁ……、そんなこともあったな」

 赤井は目を細めた。何年前だったか。赤井がまだライで、名前が名前でなかった頃の話だ。
 ライは名前たちの生い立ちを聞いて、鼻を鳴らした。そんな扱いのくせ組織に尽くすのか。狼の名が聞いて呆れる。君たちには誇りがないのか、と。ひどくバカにされた。

「人間なら目的があるはずだって、あなたは言った。でも私に目的なんて持てなかった。未来を考えるなんてとうに諦めてた。だから、だから私はあなたを利用したの」

 そこまで吐き出して、名前は咳き込んだ。そうすると折れた骨が痛むし、周りには血が飛び散った。

「……おい、」

「いいの、いいから。それより、ね、分かったでしょう」

 でも話すのはやめなかった。名前が名前として生きたと彼に知らしめるために。

「私、目的を作ったの。あなたが抜けたことを利用して、あなたを殺そうって決めて。だって、だって……、」

 赤井がいなくなって、彼がFBIだと知らされて。それまでの思い出が偽りだと分かって。でも名前に彼を恨むことはできなかった。殺したいなんて、もっと。それでも思い込ませるしかなかった。

「憎しみってとても人間らしいでしょう?」

 謝るべきは名前の方だ。「ごめんなさい」こんな理由で赤井秀一は死ぬべきではない。ナイフで裂いて、ようやく思い知った。やっぱり名前は人間になれない。

「……早く、行って」

 赤井を見上げる。色を失った顔。でもまだ彼は生きている。傷は深いけれど今治療を受ければきっと助かる。「私に付き合う必要なんてない」笑うと痛みで頬が引き攣った。
 けれど赤井は動かなかった。どうして?名前が急かしても、声をあらげても。彼は立とうとしない。

「どうして、」

 彼は首を振った。口の端だけで笑って、なんてことないように言う。

「少し、疲れた」

 赤井は懐を探った。取り出されたのは潰れた小さな白い箱。1本取り出し、咥え、火をつける。ふぅ、と立ち上る紫煙。こんな時まで煙草か。中毒者め。名前は呆れた。けれど空に上っていく煙を見ているといつもとは違った感情が沸き上がる。そう、これは興味。ただの好奇心だ。

「……ねぇ、1本ちょうだい」

 言うと、赤井は瞠目した。「君がそんなこと言うとはね」そんな、分かったような言い方をして。名前のことなんてどうだっていいくせに。なのに、彼は。

「…………、」

 温もりが遠ざかっていく。まるで幻だったみたいに。何もなかったみたいに。
 けれど夢ではなかった。口に残る苦味がそれを教えてくれた。彼が名前に触れたことを。

「これで我慢しろ」

 彼はいつもの嫌味な笑みを浮かべた。背中を瓦礫に預け、息をついた。長くないことは彼の吐いた息の長さで分かった。
 名前は空を見た。崩れた天井から覗く青空を見た。光は等しく降り注いでいた。名前にも、赤井にも。
 唇を舐めるとまだ微かに残り香があった。目を閉じるとヘーゼルグリーンが思い出せた。掌には投げ出された彼のそれがあった。それで、十分だった。人間にはなれなかったというのに、不思議と充足感が胸を充たしていた。
 それはきっと認められたからだ。恋ではなく、愛でもなく。ただの執着だったけれど、確かに赤井秀一という男は名前の特別だった。

「私は赤井秀一が好き」

 独り言のように言葉にする。するとパズルのピースが填まったみたいにすっきりした。そう、名前は赤井のことが好きだ。それは恋でも愛でもないけれど。そんな人間らしいものではなかったけれど。
 赤井は、ふっと笑った。

「俺も嫌いじゃない」

 それ以上二人は何も口にしなかった。言うべきことはもうないと理解していた。ただ静かに終わりを待った。二人の間にあるのは、ひどく穏やかな気持ちだけだった。