元武官と春告げの雨2


 温かな腕の中、微睡んでいた名前の耳に。遠く、水の滴る音が届いた。

「あ、雨だ」

 声が落ちるのと同時に。天幕が降りるように水音が降り注いだ。さぁーっと、音を立てて滑り落ちる霧雨。せせらぎに似た雨音が耳朶を擽った。

「よかったな、名前。勘が外れなくて」

「もう、またそんなことを言って……」

 揶揄いを含んだ響き。覗き込む眼差しに、名前はむうっと眉根を寄せた。へそを曲げる口許は不満の証だ。
 けれどそうしてから、名前は夜着の上に羽織っていた衫を胸元で掻き合わせた。
 「なんだか冷えてきましたね」しんしんと冷える体。冷気は足許から立ち上っているようだった。

「大丈夫か?」

「ええ、でもこの分だと……」

 風邪でも引きやしないか。そう言いたげな瞳は名前を案じている。
 その優しさに微笑でもって答え、しかし名前は思案げに呟いた。
 さ迷う視線。向けられた先、窓の向こうにあるのは相変わらずの闇夜。厚く垂れ籠めているであろう曇天も、絹糸のように降り注ぐ雨脚もこれでは確かめようもない。この雨がどれだけ続くのかも。
 けれど名前の不安が杞憂に終わることはなかった。悲しいことに、その予感はまたしても的中してしまったのだ。

「うわ、激しくなってきたな」

 次第に足音を乱雑にしていく雨垂れ。先刻までの淑やかさはどこへ行ってしまったのか。淑女は無頼漢へと姿を変え、窓を喧しく打ちすえた。
 それはもうただの雨ではない。氷を含んだものーー雹だった。

「これじゃ明日は忙しくなりそうさ」

「そうですね……。あぁ、考えるだけで頭が痛い」

 名前は額を押さえ、溜め息を吐く。この分だと農作物に被害が出るのは間違いないし、下手をすると家屋にも傷がついているかもしれない。まぁここにいるのは仙道だけだから、被害が人にまで及ぶ恐れがないのだけは幸いか。
 しかし収穫に影響が出るのには変わりない。はてさて、これから先どうしたものか。
 頭を巡らす名前だったから、反応に遅れた。稲光が走ったのにも、

「……っ、」

 その少し後、耳をつんざく雷鳴が轟いたのにも。驚き、息を呑んだ。
 閃光弾が弾けたのと同じくらいの眩しさ。世界は一時白に塗り潰され、目は眩む。
 それに不意を突かれたから、一拍置いて轟いた雷鳴に体は竦んだ。喉奥で溶ける小さな悲鳴。指先はひとりでにさ迷い、標を求める。すぐ側にある温もりへと。自然指先は彼の夜着へ、袍の柔らかな布地を掴み、握り締めていた。

「名前?」

 その様は、縋りつくといった風で。
 燭火にゆらりと落とされる光。照らされた眼は訝しげなもの……ではなく。名前の身を案じる影が落ちていた。
 それでようやっと名前も我に返る。ほんの数秒前。自身が成したこと。それから現状を。
 ゆっくりと視線は移ろい、その腕を辿り。腕から指先へ、それが彼の胸元をきつく握り締めているのを認め、彼の顔をまた見やりーーそうして、あっと声を上げた。

「あの、これは決して恐れたからというのではなく……!ただわたし、びっくりして。とてもとても驚いてしまったから、」

 ただ、それだけなのだと。
 パッと音が鳴りそうなくらいに勢いよく手を離し、距離を取り。名前は狼狽えながら、視線をさ迷わせながら、ひたすらに言葉を紡いだ。先程自分が起こした行動。その言い訳を。
 燭台の細やかな光とは到底言い繕えないほどの朱色をその頬に宿し、名前は必死の様子で言葉を重ねていたのだけれど。

「……なんだ、」

「え?」

「期待したんだけどな。今、名前が俺っちを頼ってくれたんじゃないかって」

 天化は。彼は残念だと肩を竦めてみせた。名前の不審な挙動には触れず。……ほんの少しの寂しさを瞳の奥に覗かせて。
 笑ってみせる彼に。「そんなことないです!」名前は咄嗟に頭を振っていた。

「わたし、今、あなたがいてくれてよかったって。本当にそう……思ったんです」

 冬ごもりで静まり返った世界で。隣に彼がいてくれたーーそれのなんと心強いことだろう!
 怖いわけでも寂しいわけでもない。けれど名前は幼い時から年長者としての振る舞いを求められてきた。それに不服を感じたことはない。
 ないけれど、こうした時。幼少期はひとり部屋に籠るしかなかったのをふと思い出した。それがひどく心細かったのを。思い出して、それがもう過去のものであるのを知らされた。他ならぬ、目の前にいる彼の存在によって。

「……手を。手を握っても、いいですか」

 そういうのは“らしくない”と思う。彼の前では殊更に格好つけていたいと思っていたから。だからこんなーー普通の少女のようなことを希うのは、名前“らしくない”。
 けれど、きっと彼はーー

「あぁ、もちろんさ」

 おずおずと投げ掛けた願い。胸元でぎゅっと掌を握るばかりの名前の手を、天化はそっと優しく抱き留めた。柔らかく、けれど力強く。彼は微笑み、名前の両の手を包み込んだ。

「でも決して、決して怖いというわけではありませんからね。ただわたしがこうしたかったから……」

「わかってる。名前が強いのは十分な」

 くつくつと笑い声が響く。未だ降り頻る氷の礫は、心の臓を冷ややかに打ち鳴らしているというのに。なのにそれすらどこか遠く。手元にはもう過去の幻影は見えなかった。
 名前はほっと息をついた。外では相も変わらずの喧騒が続いているのが嘘のように。心は穏やかに流れ、温かなもので満たされていた。
 名前は天化に身を寄せた。これ以上ないというほど。身を寄せ、小首を傾げた。

「天化さんは怖くなかったのですか?それこそ小さい頃なんて」

「うーん……、どっちかって言うと雷ではしゃぐタイプだったからなぁ」

 記憶を辿る視線。追憶に馳せる目に映るものに、名前の心は浮き足立つ。
 どうしたって過去は変えられない。名前が彼と出会ったのは長じてから。朝歌で暮らしていた頃の彼のことは断片的な話からしか想像することができなかった。
 だからこそ、少しでも触れたいと思う。その一端に。彼を構成する一部に。触れたいと願うから、名前は目を輝かせて「では今も?」と続きを促した。

「まぁ、確かに。俺っちは今結構ご機嫌だけど……、今は違う理由で、かな」

 わくわくとした声に笑み返し。なのに天化は名前の問いにはっきりとした答えを与えてくれはしなかった。蕩けそうな瞳ではぐらかし、疑問を口にしようとする名前を封じ込め。

「なぁ名前、雷が気にならなくなる方法、教えてやろうか」

 名前の流れる髪を梳きながら、そう囁いた。耳許で。唇が掠めるほどの近さで。彼は囁き、意味深に笑みを深めた。
 ……その魔的な術に抗う手段なんて、名前にあるはずもなく。

「気にならなく……?そんな方法があるのですか?」

「まあな」

 訊ねたいことはまだ胸に残っていたけれど、それ以上に興味を惹かれ、名前は素直に教えを乞うた。
 そうして見上げる名前に天化は笑みを落とすと。

「……っ、」

 なんの断りもなく、その手を引き寄せた。
 そうなれば自然名前の体は重力に従い倒れていく。けれど榻から傾いでいくその身を抱き留めたのは、やはり彼の力強い腕で。

「何を……っ、」

 するのか、と。思わず声を逸らせたけれど、それは失われた距離と共に消えていった。音は空気に、衣服に、膚に溶けていく。
 そう錯覚するほどに肩に回された手は固く、視界には彼の体しかない。鼻孔を擽るのは心地のいい甘やかさ。その香りは深い森の木々を想起させた。温かで、穏やかで。

「しーっ、……いいから黙って」

 なのに耳許を掠める吐息は。落ちる声音は。囁きは。ーー名前から言葉も思考も奪い去り、世界は鎖された。
 命じられるがままに名前は口を噤み、継ぎ穂は宙を漂う。けれどそれに手を伸ばす気にもなれない。名前が感じるのは彼の温もりと、それから。

「なぁ、今何が聞こえる?名前、お前の耳には」

 囁きは秘めやかで細やかで。だというのにかしましい雷鳴は忘れるほどに遠く。
 それはどうしてか、なんて。ーー名前にはもうわかっていた。

「……あなたの、胸の音が」

 名前はそっと耳を傾けた。自身を支える体に手を添えて。その膚の奥、流れる血潮や脈打つ鼓動やーー生命の息吹に耳を傾けた。
 それは不思議な心地だった。名前と天化は独立した個であるはずなのに、今だけはひとつの存在のように思われた。寄り添う心音は近づき、重なり、やがて溶け合っていく。温度も、呼吸も。初めからひとつだったみたいに溶けて、混じり合った。

「だろ?」

 天化の笑う気配がする。震える膚から、空気から。伝わり、名前にまで感染する。
 それは独りでないという何よりの証だった。傍らに彼がいなければ感じられぬ安堵だった。母の腕に抱かれたような無条件の安らぎでありながら、母では感じられない、目眩がするほどの熱を帯びていた。

「もう雷なんか気になんねぇはずさ」

「ええ……」

 名前はほうと溜め息に似た吐息を洩らす。
 確かに彼の言う通り。雨音は影となり、雷鳴は日常に埋没していった。今も、ーーそして、過去も。幼い頃、雷鳴に耳を塞ぐばかりだった記憶も。その時感じた心細さも含めて彼の手で溶かされていく。そんな気がした。

「もう気にならないわ。だってこれは春告げの雨……春雷なんですもの」

 名前にはもうこの雷雨が災いとは思えなかった。春雷ーー春の到来を知らせる音色だった。千梢万葉、玉玲瓏……雨粒は玉のような輝きを発し、緑を色濃く映し出しーー冬ごもりに眠っていた者たちも動き出す、そんなよき日の報せだった。

「それなら俺っちの計画通りさ。どうだ?……かっこよかったろ?」

「ええ、とても。惚れ直しました」

「そいつはよかったさ」

 燭台は朗々と燃え、邸には灯りが満ちていた。雹は溶け、外では遠慮がちな春雨ばかりが滴り落ちていた。宵闇は遠く、体を包むのは心地のいい温もりばかりだった。
 安息を齎す拘束の中、名前は天化と共にさざめき笑う。その顔にはもう翳りなど微塵も存在しやしなかった。