一個の宇宙


「殺してやる!殺してやるぜフーゴ……」

「この野郎〜〜〜ッ」

 リストランテの中、個室の扉を開けてすぐ。飛び込んできたのは怒声と、仲間にナイフを向ける少年の姿。

「ああ、なんてこと……」

 名前は額を押さえ、がくりと項垂れる。
 せめて。せめて今日くらいは、緊張しているであろう新入りの少年に余計な心配はかけたくなかったのに。これではもう身構えるなと言う方が難しい。先程名前がした話もこれでは泡となる他ない。

「ちょっともう!何やってるの、フーゴもナランチャも」

 ブチャラティが何事か言いかける。それすらも気づかず、名前はその脇をすり抜け駆け寄った。血気盛んな少年ふたりへと。
 駆け寄り、その額を一回ずつ指で弾いてやった。

「いたっ!」

「待ってください名前、問題なのはナランチャの方です。彼といったら僕が教えたことちっとも覚えちゃいない!さっきだって言い出したのは自分なのにサボろうとして……」

「なっ!?それ言うならフーゴだろ!!先に手ぇ出したのだってフーゴだ!!」

「なんだと!?」

「ああもうだからやめなさいったら、」

 掴み合いの取っ組み合い。そうしようとする少年二人の体は未だ発展途上のもので。それでも肉体はただの少女である名前が、二人に腕力で敵うはずもない。
 互いに手を伸ばし合い、喧嘩を続行しようとする二人。名前はその身で二人の間に割り入り、なんとか引き剥がそうとしたが。

「退いてください名前!こいつには一度きちっと言ってやらなくっちゃあならないッ!」

「ああそうかよ!!やってみろよフーゴ!返り討ちにしてやっからよぉ!!」

 ナイフを突き立てようとするナランチャと、それを阻み、あわよくば捩じ伏せようとするフーゴ。沸点の低い二人の喧嘩は最早名前には止めようがない。
 けれど名前はひとりじゃない。そう、少なくともここには信頼のおける仲間たちがいるのだ、と。

「ねぇミスタ!見てないで手を貸してちょうだい!」

 名前が最初に頼みの綱としたのは気のいい彼であった。食後の紅茶を飲む彼に、名前は助けを求めた。
 ……のだけれど。

「わりぃな、名前。男の喧嘩には首突っ込まない主義なんだ。それにオレはシッターになった覚えもねぇ」

「〜〜〜っ、もう!」

 そうだ、彼はそういう人だった。
 肩を竦めて手を挙げるミスタに。その演技がかった仕草に、名前は膨れる。そりゃあもう地団駄でも踏みそうな勢いで。けれどそれは淑女にあるまじき行為。内心だけで堪え、その代わりとばかりに名前は語気を荒げた。
 それに笑みを深めるのがミスタという男である。

「けど名前がオレからの指輪を受け取ってくれるってんなら考えてやってもいいぜ?」

 続くのは揶揄いの語。あからさまな冗談、挑発だ。
 だから名前は冷めた目で視線をくれてやった。なにバカなこと言ってるの、と。
 そう、名前は理解していた。彼のこれがいつもの悪ふざけだと。

「なにつまらねぇ冗談言ってんだミスタッ!!!」

「そうだぜ!っつーか人をガキ扱いしてんじゃねぇ!!」

 なのに怒りを露にしたのは名前ではなく、彼女を挟んでいた二人だった。
 それまで噛みつき合っていたのが嘘のよう。途端に掌を返し、結託するナランチャとフーゴに名前は目を瞬かせる。
 ーーそんなに怒るところかしら。
 だが首を捻るのは名前ばかり。張本人のミスタは二人に詰め寄られているというのにひどく愉しげだ。子供を揶揄う悪い大人の見本って具合に。
 騒ぎ立てる、その後ろ。

「……てめーらッ!いつまで騒いでいるつもりだッ!!」

 痺れを切らしたのはリーダーであるブチャラティだった。勝手気まま、自由奔放が過ぎる部下たちに頭を痛めながら、けれど彼は毅然とした面持ちで声を張り上げた。
 響き渡る叱咤。しまった、と顔を顰めたのはナランチャと名前で。しかしそのナランチャも彼の後ろに見知らぬ少年がいるのを見て取ると眼差しを鋭いものへと変えていった。

「新しい仲間を連れて来た!ジョルノ・ジョバァーナだ!!」

「ジョルノ・ジョバァーナです。よろしくお願いします」

 ブチャラティの後ろ。物音ひとつ立てず、綺麗な礼をしてみせるジョルノは感情の見えない表情をしていた。
 その様を皆が静かに見詰める。音もなく、色もなく。ただ黙したまま、探るような視線を投げ掛けていた。
 それはひどく居心地の悪い感覚だった。肌に張りつく空気。糸でがんじがらめにされた四肢。それは無論錯覚に過ぎないのだけれど、それでも今は呼吸すら憚られた。

「……ごめんな、フーゴ。オレ一生懸命勉強するよ。だからまた教えてくれ」

「ぼくの方こそ許してください、ナランチャ」

「…………」

 口火を切ったのはナランチャ、続いたのはフーゴだった。そして沈黙を守るのはミスタとアバッキオ。けれどその視線はもうジョルノにはない。ミスタは本に、アバッキオは音楽に意識を傾けていた。

「……ちょっと、ナランチャ、」

 それはお世辞にも歓迎しているとは言いがたかった。あまりに不躾、無作法もいいところだ。
 その非難が声に滲んでいたのか。すぐ隣に耳打ちすると、ナランチャは気まずげに視線を逸らした。
 「だってよぉ……」秘めやかな会話は当人にまでは届いていない、はずだ。そう考えながら、名前は彼の弁に耳を傾けた。

「なに考えてんのかわかんねぇもん、アイツ……」

 仲良くなれそうもない、と。仲間内には心底優しいが、それ以外とくればその愛情の一片も許さない。そんな彼にとって新入りを快く迎えるのはとても難しいことなのだろう。
 わからなくもない。彼の性質くらい、この一年余り共に過ごしてきた名前には。
 でも、それでもーー。

「おいおまえらッ!このブチャラティが連れて来たんだ愛想よくしろよッ!証明のバッヂも持ってるッ!」

 続くブチャラティの言葉に。
 意外なことに身動いだのはアバッキオだった。
 とはいえそれは動揺のためではない。彼は何事かーー視線を落とし、机の下で密やかに手を動かしている様子だった。

「何を……」

 しているの、と聞きかけた言葉は掌に溶けた。
 「しっ、」黙ってと口を塞ぐフーゴによって。

「いいですか、名前。絶対に、絶対にアバッキオを見ちゃあいけませんよ」

「え、ええ……」

 手を引かれ、アバッキオから距離を取り。そうしてやっと名前を解放したフーゴは、それでもまだ名前に制約を与えた。
 その言葉の意味すること。理由など名前にはさっぱりわからない。

「いいですとも。ジョルノ君だっけ?立ってるのも何だからここ座んなよ、お茶でも飲んで……話でもしようや……」

 ただそう言うアバッキオが悪い大人の顔をしていることくらいしか。
 わからなかったけれど、彼が何かを企んでいること。フーゴがそれから名前を遠ざけようとしたことだけはわかった。ミスタが「なんだよ、名前も見てりゃあよかったのに」なんて言う辺り、どうせろくでもないことなのだろうが。

「さあ飲みなよ、あんた年いくつ」

「15です」

「15?なぁ〜〜〜んだ、オレより2コも下だぜ……」

「いただきます」

 そんなやり取りをハラハラとした面持ちで見守っていた名前であったけれど。

「うっ!」

 カップに顔を近づけ、口をつける。……寸前、ジョルノが小さく呻いた。ひそめられた眉。落ちる影。そこで、名前にも察しがついた。
 ーー何か、入れられたのだ。
 それがよくないものだということまでは名前も諒解した。が、具体的なものまでは思い浮かばない。臭いでわかるもの、といえば薬品だろうか。だがそれでは悪戯で済まなくなってしまう。

「どうした?おまえはオレがわざわざ注いでやったそれをいただきますって言ったんだぜ。いただきますって言ったからには飲んでもらおうか」

「……?何やってんだオマエらッ」

 追い討ちをかけるアバッキオ。思わず口を開きかけた名前を止めたのはやはりフーゴで。

「えッ!」

「うそだろッ!オイッ!」

 皆を驚嘆させたのはジョルノだった。
 アバッキオの注いだ紅茶。それを飲むのに躊躇っていたのは真実彼である……はずだ。だがジョルノは一息にそれを飲み干した。後に残されたのは空のティーカップのみ。どこにも中身が零れた様子はない。

「…………」

「うわお!バッチイッ!飲みやがったこいつッ!」

「違うッ飲んでるわけはない!どこに隠したんだ!?」

「わははっ!お……おまえおもしろいな!本当に飲んだのかッ!教えてくれよオレにだけ、な!教えろよ」

 息を呑むアバッキオ。引き気味のナランチャ。疑念を向けるフーゴ。笑い声を立てるミスタ。そんな彼らにジョルノは不敵な笑みを向けた。

「さあね……君たちだって『能力』を秘密にしてるんだろ?」

 それは彼、ジョルノ・ジョバァーナも『スタンド使い』であることを示していた。