太公望、部下に嗜められる


 太公望にはあれほど噛みついていた名前であったけれど、他の者とは中々に上手くやれているらしい。天化とは既に旧知の仲のようであったし、姫昌や黄飛虎に対しては素直に従っている様子である。
 面倒なことになるのでは、というのは太公望の杞憂に終わったのだ。

「ちょっと貴方!そんなとこに突っ立ってるくらいなら手伝ってちょうだいよね!!」

 ……とはいえ、太公望に対しては相も変わらずの扱いであったが。

「手伝うと言ったってなぁ……、わしに料理をせよと?」

 名前が居たのは西岐城の厨。広々とした厨房に立つ少女の髪は高く結い上げられ、その色も相まって胡姫の如き様相である。尤も口を開かなければ、の話ではあるが。
 ともかく彼女は女主人もかくやといった様子で厨房に立ち、あれやこれやと指示を出しながらもてきぱきと手を動かしていた。淀みない包丁さばき。迷いのない手つきから、彼女がこうしたことに秀でているのだと伝わってくる。
 その目は触れるのを躊躇わせるほど。硝子細工かフィラメントか。張りつめた糸は息を呑むほどにーー美しい。
 しかしそれも一瞬のこと。視線に気づいた名前は柳眉を吊り上げ、太公望を睨めつけた。それは野生の動物さながらの俊敏さ、警戒心の強さである。太公望には彼女が毛を逆立て威嚇する狼のように映っていた。

「ええそうよ、貴方が暇してるっていうんならね」

「では昼は桃にしよう。今日は日差しが強いからな、スッキリとしたものがよかろう」

「……ちょっと待ちなさい」

 鼻を鳴らし、つんと取り澄ましていた少女。だがその表情は一変。太公望の言にきゅっと眉をひそめ、果実を一掴み持ち去ろうとする肩に手をやった。
 その手に籠められた力といったら!襟元が絞められ、太公望の喉からは潰れた声が洩れる。それは到底人のものではなく。蛙かといわんばかりのそれに、けれど名前は険しい顔を崩さない。

「貴方、それだけでいいと本当に思ってるの?」

「無論!桃さえあれば腹も膨れ、心も満ち足りるであろう」

 大仰なまでの笑顔。言い切る形に、名前の眉間の皺はみるみる増えていく。その深さといったらさながら海溝のよう。
 けれど次に名前が吐いたのは罵声ではなく。やってられないとばかりの長い溜め息だった。

「ばっかじゃないの」

 呆れたわ、と。頭が痛いと額に手をやり、首を振る。その姿、母か姉かといった様子で。

「貴方ね、そんな生活してたら体が保たないわよ。食事っていうのはそういうものでしょ」

 それは続く言葉になおのこと深まった。
 名前は腰に手をやり、言い聞かせるような声音で言う。腰を曲げ、太公望の顔を自ずから覗き込んで。わざわざそうしてやる少女の頬に、はらりと一筋影が落ちる。
 それは金糸……、であった。日差しに透け、幻想的な光を宿す絹の糸。淡い金は少女が内に湛える温かな焔を映し出しているのだった。

「いい!?貴方はこの西岐の軍師、……私たちにとってかけがえのない人よ。それを忘れられちゃ困るわ」

 それに意識が吸い寄せられたのはどうしてか。確かに美しいに違いはない。ないけれど、とはいえ太公望の心を奪うには価しない。が、事実は事実。では何故か。
 それは考えるまでもないことだった。心とは常に己の内側にあるもので、この時の答えもまた同様であった。
 太公望の心に映し出された風景。それは遠い昔の記憶、安穏たる日々を当たり前に甘受していた頃の思い出だった。

「まさかおぬしにそのようなことを言われるとはのう……」

 湧いたのは郷愁。零れたのは溜め息に似た呟き。どちらも自覚したものではなく。それ故に真の色合いを帯びていた。
 だからこそ名前の目は見開かれる。

「何よ、……って、」

 何時もの通り。強い語気のまま続けようとした名前の口が、はたと固まる。
 瞳が見つめる先はひとつ。煙る燐火が照らすのは太公望ただひとり。けれど思考が至るのは異なるらしく。
 刷く色は朱。頬に走る熱は明々と燃え、太公望にも彼女の思いがまざまざと伝わってくる。
 それは羞恥だった。
 羞じらいに頬を染め、名前は釣り上げられた魚のように口を開閉させた。それもまた彼女の本意ではない。体の反射的な行動。そしてその思いは奔流となって、少女の喉を震わした。

「言っておきますけどっ!まだ貴方のこと認めたわけじゃないから!貴方が……っ、……だなんて、私は決して、」

「ん?わしがなんだ?」

「〜〜〜っ、なんでもないわよ!!」

 振り上げられた刃は、しかし行き場をなくし己に帰る。
 地団駄でも踏みそうな勢いだ。そう太公望は思ったのだけれど、名前はぐっと唇を噛むことで堪えたようだ。淑女らしからぬ、というのは恥の上塗り。名前にとって耐え難い屈辱であろうから、それが彼女なりの矜持であったのだろう。
 そのくらい太公望にもわかる。出会って間もないとはいえ、彼女の自尊心が崑崙山よりも高く聳え立っていることくらい。
 そして太公望にも伝わるということは、今まさに出会した人々ーー西岐城の者たちにまで察せられることで。
 容貌可憐な少女が歯噛みしているのを、歳のいった住人たちは微笑ましげに見守っていた。

「もう貴方には頼まないから!大人しく座って待ってなさい!」

 が、名前は気づかない。
 彼女は声を上げ、中庭の方を指し示した。そこには何時も通り黄家の一族や武吉たちが昼食のために集まり出しているはずだった。
 要するに、ここから出ていけということなのだろう。

「おお、楽しみにしておるぞ」

「あ……っ、たりまえじゃないの!!」

 内心の笑みを噛み殺し、何も気づいていない風を装って太公望は鷹揚に頷く。と、一瞬呆気に取られた顔をして、けれどすぐに名前は胸を張った。何時ものように、自信に満ち溢れた様子で。
 しかしその口許が僅かに緩んでいることにーー笑みが隠しきれていないことに、太公望だけは気づいた。気づいてしまった。他の誰にわからずとも、今相対している太公望には。
 ーー嬉しい、と。いうのを堪える表情は甘美なまで。蜜の一滴でも落とされたような感覚であった。
 それに内心首を傾げるものの、当の名前に背中を押され追い立てられ、思考は霧散してしまう。

「何もそう急かさんでもよいではないか。どうせなら味見でも……」

「私が構うの!ちょっと、振り返っちゃ駄目ったら!!」

「わかったわかった!」

 厨の外へと追いやろうとする手。背中に感じるのは、それと押しつけられた少女の輪郭、その柔らかさ、温かさであった。
 振りほどこうと思えばどうとでもできる力だった。けれど口では言いながら太公望がそうすることはなかった。
 素直に従い、回廊へと舞い戻る。と、少女の力も緩み、感触が離れていく。
 ーーもう構わないということか。
 理解し、振り返った太公望に。

「……後で感想、聞かせて」

 一言。それだけを言い捨て、名前は返事を聞くことすらせずに踵を返す。そこに迷いはなく。ただあるのは少女の意を決したという声、その残滓だけだった。

「素直じゃないのう……」

 不安に揺らぐ目。引き結ばれた唇。それは彼女が勇気を振り絞った何よりの証で。
 わかりにくい歩み寄りに、太公望はひとり笑みを溢すのだった。