道士、幼馴染みと攻防す


 小麦粉を捏ね、出来たものを胡餅炉に入れ。そうして焼き上がったら、今度は胡瓜の漬物やら豚肉の脂身やらをくるんでいく。その上にかけるのは飄韲ーーみじん切りにした胡芹と蓼を酢の中に入れたものだーー薬味である。
 炉から取り出したばかりのそれ。漂うのは香ばしい油の匂い。食欲を誘う香りであった。

「……よし、」

 出来上がった一品に、名前はひとり頷く。満足げに、そして安堵に。
 気を緩めた、その時。
 
「お、今日は胡飯か」

「……っ、」

 ひょいと落ちる影。同時に耳許を掠める音と吐息。
 ぴくりと肩を揺らしたのも心臓が跳ねたのも驚きから。決してその他の理由などありはしない。絶対に。悪いのは不意を突いた闖入者であって、この反応はあくまで自然発生的なものなのだ。

「……びっくりした。もうっ、驚かさないで」

 ……と、誰にともなく言い訳をして。けれど振り仰いだ名前の手は胸元を押さえたままである。
 睨めつける眼差しは虚勢の証。とはいえ彼女がそれを認めることは決してないだろうが。
 ともかく何時も通りにーーそう、何時も通りの冴え渡る碧玉でもって。名前は傍らへ立つ青年へと非難の声を向けた。
 ーーけれど。

「悪い悪い。けどそんな集中してっとは思わなかったさ」

 名前、と。親しみを籠めて名を呼ぶ青年はちっとも気にした様子がない。
 それもそのはず。彼、黄天化と名前は血脈を同じくする旧き友であったからだ。だから彼にとって名前のこの反応は、長らくの間修行で隔たりが生まれようともただ懐かしいばかりであった。
 暖簾に腕押し。糠に釘。名前が口を曲げようとどこ吹く風。終いには名前が折れるのが常であり、この時もまたそうであった。数秒の攻防、その果てに。やがて名前は溜め息を吐き、肩に落ちる髪を払い除けた。

「あのね、当たり前でしょう?人様のお口に入れるものなんだから……気を遣わなくちゃ」

「ん、そうだな」

「って、ちょっと……」

 名前と天化では歳の頃はさほど変わりない。だというのに、だ。天化は弟にするような気安さで名前の頭を撫でた。舐められている、侮られている。そうとしか思えない。
 だから名前は反論しようとしてーーほんの数分前のことを思い出し、言葉を詰まらす。
 一度、二度、三度。何事か言いかけ、止める。その繰り返しの末、名前はがくりと肩を落とした。

「貴方には何言ったって無駄みたいね……。もう好きにしたらいいわ」

 呆れ半分諦め半分。やれやれと降参の意を示した名前に、天化はにんまりと笑う。そうしてから。

「んじゃあ、お言葉に甘えて」

 伸ばされる腕。それは名前よりもずっと長く、速く。

「あっ、」

 不意討ちに。制止しようとしたものの追いつくこと叶わず。名前の手は中途半端に空をさ迷い、狼狽える。されど天化は止まらない。
 不埒な指先は皿に並べられたばかりの胡飯をひとつ、摘まみ上げ、口へと放り込んだ。
 それはほんの瞬きほど。なのに天化は仙道向けに避けられたものを正しく選び取っていた。
 その動きが名前にはひどく緩やかに見えていた。手を伸ばすこと、届くことは叶わなかったというのに。彼の口が開かれるのも、胡飯を咀嚼するのも。固唾を呑んで見守ることができた。

「ん、うまい。味つけもちょうどいいな。これならオヤジたちも食べられるさ」

 だから嚥下し終えた彼が口許に残る薬味まで舌で舐めとるのを見て。その顔に浮かぶのが言葉と寸分違わぬ色であるのを認めて、そこでようやく名前はほっと息をついた。

「そ、それならいいんだけど」

「あぁ。……ありがとな、名前」

 ほっとした。そう、その通り。
 瞬間心に閃いたのは誰の横顔だったか。向けられる笑顔は誰のものだったか。ーー真実の願いではなかろうか。
 その想いに「まさか」と内心首を振る名前は、柔らかな笑みにまたしても驚かされた。
 それは彼らしからぬものだった。平時の彼ならば。底抜けの明るさと子供のような純真さを全面に押し出した笑顔をしている。名前にはできない、ほんの少しの憧れを思い起こさせる色合いで。
 けれどこの時彼が浮かべたのはひどく大人びたものだった。ーー名前には、彼が初めて見るような人に思えた。

「な、……御礼を言われるようなことじゃないわよ。私が好きでやってるんだから」

 だから答える声も“らしくない”。覇気がないし、何より真っ直ぐ立っていられない。いやそれは錯覚で、本当のところたじろぎ俯くのは眼差しだけである。が、名前にとってはそんなのどっちだって良かった。どちらにせよ、動揺しているのは事実なのだから。

「それでもさ。家族のことを気にしてくれてたのには変わりない」

「……そ」

 それだけ。名前に言えるのは素っ気ない音ばかり。
 ーーしっかりなさい、私!内側にいるもうひとりはそう言ってくる。体もそれに応えて平静を装おうとする。それでいい、それでいいのだ。
 そうやって名前は自身を落ち着かせようとしているのに。

「けどこれからは一人で何でもやろうとすんなよ。この大人数、名前一人で毎日作るなんて無茶さ」

 なのに天化は歳上ぶった様子で名前に言い諭してくる。昔はそんなことなかったのに。子供の頃は平等を謳い、お互いがむしゃらに駆けてきたのに。
 ーーなのに今更、普通の女の子を見るような目を向けてくるなんて。

「……でも他の人に任せるのは良くないわ。妖怪仙人がどこから仕掛けてくるかもわからないし、……人を巻き込むのも毒を食らうのも私は御免よ」

 侮られるのは嫌だった。彼は幼馴染みで友人で。何より幼い時からの好敵手であったのだから。
 名前は内心を圧し殺し、冷静にと言い聞かせながら言葉を紡いだ。最初から考えていたことを。改めて口にすれば、水を被ったように心は冴えていった。
 凪いだ瞳は平静の印。今の状況、戦争のただ中であるのだと己に思い知らせることで、名前こ驚きと怒りは静かに引いていった。

「ん、だからさ」

 嵐と凪。掌返しに大きく揺さぶられる名前の心中など天化は知らぬ。故に相変わらずの優しげな笑顔で名前に提案した。

「これからは俺っちを呼べって言ってんのさ。今更遠慮するような仲じゃないだろ?」

「貴方を……?」

「あぁ。これでもちょっとばかし仕込まれてるかんな、結構いい線いってると思うさ」

 天化はにっと笑い、胸を張る。何故だかとても楽しげな様子。自分から従者じみた役割を提案してるとは到底思えない笑顔に、自然名前からも力が抜けていく。
 先程感じたのはどうやら気のせいだったらしい。ーー彼が知らない人のよう、だなんて。馬鹿げた妄想ね、と名前は呆れ果てる。天化は天化だ。小さい時から知っている。変わりなどない。変わるはずもない。
 そう思えば、もう視線を逸らす必要もどこにもなかった。名前は自分よりも高いところにある瞳に向けてひょいと肩を竦め、

「まぁ、貴方が器用なのは私も知ってるけど」

 と前置きした。そうしてから、そっと言葉を続ける。

「……いいの、本当に」

 静かに。問う声は厨に落ち、広がりゆく。
 厨房には多くの人がいた。昼食時なのだ。仕事に追われる人々の中、けれど名前は多くを語らず天化と向き合った。
 侮られるのは嫌だった。けれど彼はそんな本心すら見透かして飛び越えてーーそのために名前を立てる提案をしてくれた。あくまで自分はお手伝い。名前ひとりでもできるだろうけど、それでも、と。これは己の我儘であると名前に言い訳を作らせてくれた。
 ーーでも、それで本当にいいの?

「勿論。男に二言はねぇさ」

 しかし天化は。彼は諒解しているはずなのにあっさりと頷いた。頷いて、本望だと言外に語った。そうしながらも決して押しつけがましくも恩着せがましくもない。
 だから名前も何時も通りに笑ってやった。

「じゃあこれからはこき使うから覚悟しといてちょうだい」

「へいへい」

「あ、もう!言い出しっぺのくせに、なんなのその適当な返事は!」

 人差し指を突きつけて宣言する。と、彼も彼で何時も通り気の抜けた声を返してきた。それに抗議をしながら、名前はよかったと安堵していた。
 先程“彼”にはああ言ってしまったけれど。でもそれはとても覚悟のいるものだ。ーーもしも口に合わなかったら。想像するだけで肝が冷える。
 けれど天化に味を見てもらった今なら大丈夫だ。好みがあるとはいえ壊滅的に不味いなんてことにはならないだろう、と。