太公望、嵐に呑まれる


 ーー象レースを開催する。
 そう決めてからの行動は早かった。周公旦から土地を借り、競技場は姫発とその仲間たちで建設する。四不象には客引きをやってもらうのがちょうどいいだろう。

「この進み具合なら開催日は次の日曜日でよさそうだのう」

「おお……ワクワクしてきたな!」

「うむ。ではスープーにはビラを撒いてもらうとして、……ん?」

 そんなことを姫発と話していた太公望は、進行方向から向かってくる人影に気づき、言葉を止める。
 翻るは胡服。鮮やかな花の刺繍と布地の赤が目に眩しい。
 だが眩しいのはそれだけでない。回廊に差し込む秋の光。涼やかさを纏う日差しは金糸に落ち、硝子片でも舞っているかのよう。その瞳の蒼々とした様子といったら、固く閉じた蕾を思わせた。
 生硬さを残した双眸。その目が、太公望を映す。

 ーー名前、と。
 少女の名を太公望が呼ぶより早く。

「名前〜〜〜っ!!」

 代わりとばかりに姫発がその名を紡ぐ。というより、叫ぶ。
 そうして駆け出す姿はさながら駿馬。普段の気だるげな態度が嘘のよう。
 パッと花開いたように輝く顔。それとは対照的に。

「……っ!」

 太公望を認め、その傍らの姫発に気づき。ほんの数秒にも満たない時間の間に名前は渋面を更に険しくさせた。
 ーーしまった。
 そうありありと刻まれた顔。
 踵を返そうとした名前であったけれど、それでも姫発の恐るべき瞬発力には敵わない。

「俺に会いに来てくれたのか!」

「んなわけないでしょう!!」

 瞬く間に名前の腰へと飛びついた姫発。締まりなく緩む顔とは裏腹に、名前を抱き締める力は強い。振りほどこうと名前ももがくが、磁石のように張りついて離れなかった。

「照れんなって。わざわざ俺とお揃いの服まで着といて……」

「偶然よ!色くらい被ったって
いいじゃない!!……ってちょっと、どこ触ってんのよバカ!ヘンタイ!!」

「……やめんかいボケッ!!!」

 ぐへへと如何わしい声を洩らし、姫発は両手を怪しく蠢かす。腹部へと回された手。それが上へと。体の線を辿ろうとするのを見て取ると、さすがの太公望も黙ってはいられない。
 出会った日と同じように打神鞭を振るった。

「ギャッ!!!」

 姫発だけを目掛け駆ける疾風。吹き飛ばされた彼は潰れたような声を上げて地に伏した。
 が、すぐさま顔を上げ、「なにすんだよ太公望ッ!!」と非難の目を向ける。……なんとも元気なものだ。
 すっかり呆れ返り、太公望は溜め息を吐いた。

「おぬしこそ何をしておるのだ……。嫌がられているのは目に見えているではないか」

「わかってねぇな、太公望。……本当に嫌ならぶっ飛ばしてくるもんだろ?な、名前」

「ぶっ飛ばしたいわよ私だって!!」

 意味深長な眼差し。向けられた名前は、しかし思い切り否定の語を姫発へと突き立てた。
 本当なら。彼の勝手を許せるはずもない。けれど姫発は西伯侯姫昌の跡継ぎ。ただの道士に過ぎない名前が、易々と手を上げられるはずもなく。
 悔しげに姫発を睨めつける名前であったけれど、姫発は「照れるな照れるな」と笑う。名前の反応も、自分の額から流れる血も。一切気にした風もなく、彼はからからと笑った。

「あぁもう、頭が痛い……」

 深い息を吐く名前。その顔には疲れが滲んでいる。どうやらこうしたやり取りは初めてのことではないらしい。二人の反応を見るに、名前が姫発と出会ってからそれなりに日は経っているようだ。

「大丈夫か?」

 気遣う声をかけたのは意識したことではない。ただ疲れた様子なのが気になっただけだ。
 気位の高い少女。彼女のことだから、こうした異性との接触は不慣れなものだろう。その証拠に、彼女の頬には怒りだけではない赤みが差していた。それは紛れもない羞じらいの色。だから、と太公望はそっと訊ねたのだけれど。

「……っ、」

 弾かれたように、太公望を見上げる瞳。大きく開かれた眼。それは驚きだけではない何かが感じ取れた。何かーー少女の頬をより一層深く色づかせる何かが。
 けれど太公望がそれについて思索するよりも、名前が口を開く方が早かった。

「一応言っておくわ。……さっきはありがと」

 それは決して素直なものではない。相変わらずの余計な装飾。けれど所詮それは装飾に過ぎなかった。本当のところは、少女の本音は、最後にある。最後、ちいさな囁きが風に溶けてしまいそうなほどであったから。それこそが真実であると太公望にはわかってしまった。

「……あぁ、」

 わかったから、太公望の口許は緩む。満ちるのは温かな気持ち。伏し目がちなのすら今は可愛らしく映った。
 ……と太公望ですら感じるのならば、必然姫発も同じで。

「名前〜〜無視しないでくれ〜〜〜」

「ひいっ!?」

「うおっ、……相変わらず復活が早いのう」

 亡者のように。おどろおどろしい声で姫発は名前の足を掴む。それを引き剥がしてやりながら、太公望は開いた口が塞がらない。
 この一点に関して姫発は化け物じみているし、諦めが悪すぎる。拒絶されているというのに、ちっとも堪えた様子がない。尊敬すら覚えるほどだ。

「そうだ、名前!次の日曜は空いてるか?」

「ほんっとうに何言ってもムダね、貴方……」

 やれやれと額に手をやった名前は、太公望に視線を向けた。「今度は何するつもりなの」と。
 ーー何故姫発ではなく自分に?
 訝しむ太公望へ。名前がよこしたのは呆れ混じりの表情だった。

「さすがに気づくわよ私だって。貴方たちが何か企んでることくらいね」

「なら話が早い!」

 喜色満面。顔を輝かせた姫発は勢い込んで名前の両手を掴む。ガシッと音が聞こえそうなほど。掴まれ、引き気味の名前に姫発はずいと顔を近づけた。

「象レースをやることになってよ!暇してんなら名前も来いよ、きっと楽しいぜ」

「はぁ……、」

 象レースとはなんぞや。耳慣れぬ語に目を瞬かせる名前は、意識がそちらに向いていることでその距離の近さにまでは気が回っていない。珍しくも触れることを許し、拒むことをしなかった。まぁ気づいていないというだけの話ではあるが。
 ともかく疑問符を浮かべた名前は姫発の勢いに呑まれていく。存外彼女は攻められると弱い質らしい。
 流されるがままに「まぁいいけど」と頷くのを見て、慌てたのは太公望だ。

「忙しいのならよいのだぞ、別に気を遣わんでも」

「そんな、気なんて遣ってないわよ」

「そうだぜ、太公望。ここはちょっと引っ込んでてくれ」

「おぬしこそ黙っておれ」

 抗議の声を無視し、太公望は名前に向き直る。
 風に揺れる金の髪。結い上げられたそれは邪魔にならないようにという意図が籠められたもので。珍しく胡服を纏っているのも、その腰に箭箙や弓曩がぶら下がっているのも、ただひとつの目的を示していた。

「これから稽古に行くのだろう?邪魔をして悪かったな」

 泥臭いことなんて嫌いだ。修行なんてもっての他。
 ……なんて言いそうな性格の癖、本当の彼女がそうしたことに熱心なのは太公望も気づいていた。普賢真人からの情報がなくとも。彼女が日陰での努力を好むのだということくらい、看破するのは太公望にとってそう難しいことじゃない。
 面倒な性格だと思う。生きづらそうだとも。だが、ーー好ましい。そうも思った。湧いたのはほんの少しの親近感。それからーー後は何だろうか。
 ともかく彼女のこれからの予定を見抜き、太公望は少女の頭を撫でた。思い起こすのは天化のこと。なんの気負いもなく少女に触れる彼を思い出し、彼がそうしていたように手を伸ばした。
 深い理由はない。だからそうしてから不味かったかと心の隅でちらりと思った。少女の矜持を傷つけた。また怒らせたか、と。

「…………」

 しかし少女は何も言わなかった。
 開かれた目。折に触れて冷たさを感じさせる碧玉が、この時ばかりは違っていた。言ってしまえば間の抜けたーー幼子のような表情。けれど震える睫毛が落とす陰影はどこか思わしげで。
 その差異に太公望までもが驚いた。……その途端に。

「気安く触らないでよバカ!ヘンタイ!」

 まるで水が引くように。さっと表情を改め、名前は太公望の手を振り払った。勢いよく。
 そうしたのは他でもない彼女自身だ。だというのに、その一瞬、僅かに強張る顔が示すこと。痛みを堪えるようなそれは後悔以外の何者でもない。

「……っ、じゃあ私はもう行くから、」

「お、おお」

「頑張れよ〜!」

 故にこそだろう。名前は決まり悪げに顔を顰め、しかし真実を口にすること叶わず。常通りの仮面を被り、言い捨て、走り去る。
 その姿、まさに嵐。花には屡次に縁のあるものではあるが、その吹き荒れる様は太公望から多くの言葉を奪っていった。呑気に手を振る姫発が羨ましくなるほどに。