なんでもないある日
ブチャラティが部下を引き連れナポリ湾にやってきたのは三月三十一日、お昼前のことだった。
「レンタルでもさぁ、クルージングなんて気分良いよな」
当初。船を借りる旨を聞いた時、ナランチャはがっかりした様子であった。けれど早々に持ち直したらしい。今では流れる陽気な歌に合わせて鼻歌交じりに店内を物色していく。
「どんくらいかかるのかな?」「お昼はまだ買わなくていいよね?」「だったらお菓子とコーラは外せないよなぁ」……うきうきと品物を手に取っては次々抱え込んでいくものだから、名前は見かねて「私も持つわ」と口を挟んだ。
「サンキュ。じゃあ名前の分もオレが払うよ」
「私のことはいいのよ、あなたの好きな分だけ買えば」
「それじゃあつまらないって」
彼の中では名前がおやつを食べるのは決定事項らしい。積み上がるポテトチップスにチョコレート。名前の心中、浮かんだ不安は至極女性的なもの。カロリーの心配をしながら、名前は「ありがとう」と笑った。
「オヤジ!会計頼むぜ!!」
どさり。腕一杯の荷物がカウンターに溢れ、仲間の目を引く。その多くが呆れであり、諦めであった。アバッキオとミスタは顔を見合わせ肩を竦め合ってるし、フーゴは「まったく」と溜め息を吐いている。
「あのねナランチャ……僕たちは遊びに行くんじゃあないんですよ」
「けどブチャラティはなんにも言ってないじゃんかよぉ」
「それはそうですけどね、……もう名前、あなたまで彼と一緒になってちゃダメじゃないですか」
矛先は名前に。手に負えない子供を前にすると、フーゴはいつだってその親に話をつけようとする。話しているうちに面倒になってくるのだろう。まぁ突然キレられるよりは余程いいのだが。
それに悪い気分ではない。こうしたやり取りが日常の中に埋没するようになって……ほんの仮の宿のつもりだったのが、想定外に心地が良いと思うようになっていた。
「でもねフーゴ、よく考えてみて。……こんなに楽しそうなナランチャにあなた逆らえるの?」
「……はぁ、あなたに言ったのが間違いでした」
だから名前は真面目くさった顔でそう言ったのだけれど、余計に頭を痛めつけてしまったと見え。フーゴは額に手をやりながら、処置なしといった風に首を振った。
そうしてから彼は、「いいんですか」と振り返った。視線の先にいるのはブチャラティ。リーダーの発言が絶対とされる世界で、彼は少し困ったように言い淀んだ。
「ブチャラティ?」
「いや、……まぁいいだろう」
「やりぃ!」
何事か言いかけ。しかしブチャラティはそれを呑み込んだ。
けれど名前は見てしまった。彼の視線がほんの一瞬ジョルノを見たことを。ジョルノを見、意味深に視線を交わし。そうしてから表情を改めたのを。
ーーどうしたのかしら。
名前が抱いたのは純粋な疑問。何故ジョルノを気にするのか。もしかして、今日の用件とジョルノは深い関係があるのかしら、と。
思ったのだけれど、それはあくまで想像の域を出ない。故にその考えは名前の中から瞬く間に消え去った。別に、だからといってどうということもない。いつも通り、名前はただ機会を伺うだけだ。本来の仕事。ポルナレフーー旧友を探すために。
「気持ちいいですね」
青い空、白い雲。そして広がるは紺碧の海。黄金色の陽光を浴びて波打つナポリ湾は、どんな悩みもちっぽけに思えるほど広大で、美しかった。
フーゴは澄んだ空気を思い切り吸い込んだ。そうして伸びをする彼に、名前は「そうね、」と微笑む。
が、彼に答えたのは名前だけ。ナランチャとミスタは離れたところで思い思いに過ごしているからともかくとして、それ以外の者ーーブチャラティやジョルノ、そしてアバッキオは固い表情のままだった。
「……ねぇ名前、なんか空気悪くないですか?」
ひそり。耳打つフーゴの視線はメンバー最年長の男に向けられている。だがそうされている彼の方はまったく気づかない。常の用心さが嘘のように。
というより、意識が他に向いているのだ。他ーー新入りであるジョルノ・ジョバァーナへと。
高い警戒心。平静を装いながらジョルノを気にする様子は野生の動物、それも狼といった生き物を彷彿とさせる。
いったい全体ジョルノの何が気に食わないというのか。彼の方はあんなにも歩み寄りの姿勢を示しているというのに。
そう思いながら、名前もまた声を落とした。
「フーゴもそう思う?」
「ええ、こりゃあだいぶ……長引きそうですね」
「困ったわね……」
溜め息を吐くのはこのチームを思ってこそ。新入りとだって良好な関係を築きたい名前としては諍いを起こされるのはたまったものじゃない。
だがこの世界では当たり前が通用しないというのもまた名前は理解していた。この世界ーー秘密の露呈が死へと繋がるマフィアの世界では。
「まぁわからなくはないのよ、『能力』のことを考えれば慎重になるのは無理ないし……」
だからアバッキオひとりを責めることなどできない。彼の『能力』。適切に使えばこれほど頼りがいのあるものはないが、しかしその反面、自己防衛には殊更不向きであった。そのために彼は必要以上に用心深くなったし、今だって新入りを見極めようと彼自身考えているのだろう。
そう察することはできる。名前も、ーーもちろんフーゴも。
「それはそうですけどこうもバチバチやられるとね……」
フーゴはアバッキオを見、ジョルノを見てから両手を挙げた。やれやれ、面倒なことになりそうだ、と。
それには名前も同感だ。みんな仲良く楽しく……というわけにはいかないが、それでも折り合いをつけてもらわないと困る。この先、何が起こるかわからないのだから。
「でも彼、なかなか見込みありますよ。今だってちっとも動じてないし、……というかあんな真似されたら普通ぶん殴りますって」
「……やっぱり酷いことしたのね」
「……あなたに言えない程度には」
そこまで言われると気になる。……が、深追いしないのが賢明だろう。
ーーこれでは先が思いやられる。
名前はフーゴと顔を見合わせ、溜め息を吐いた。