道士、煩悶する


 賭け事に興味はない。そんな名前が象レースの観戦に来たのは無論気紛れだ。誘われたから来た、それだけ。髪型が始終気になるのも、襦裙の裾を一々直してしまうのも、特に理由はない。視線が自然彼の姿を探してしまうのだって!

「そうよ、深い意味なんてないんだわ……」

 青々と澄んだ秋の空。彩る鮮やかな風船たち。浮き足立つ人々の中、険しい面立ちの名前は異様なことこの上ない。
 ーーこのレースに全財産叩いたのでは。そう勘繰られるのも今は意識の外。名前は己のことだけで手一杯であった。己のままならぬ心を持て余すばかりである。
 そんな具合で爪を噛む名前に。

「何ぶつぶつ言ってるんさ」

「天化、」

 声をかけるのは幼馴染みくらいなもの。家族の晴れ姿、しかと目に焼きつけねばとここまで名前を引っ張ってきた彼は、この時もまた名前の意識を引き戻す役割を果たしてくれた。
 かといって、名前が素直に感謝できようもない。

「……私にだってそういう日くらいあるわよ」

 それでも“彼”にするように吠えたりなぞはしない。拗ねたように薄紅の唇を尖らせ、ついと目を背ける。これは反論のできぬ証。素直じゃない名前の、しかしわかりやすい反応であった。
 幼馴染みのこの態度、見慣れた天化は意味深に息を洩らす。「ふぅん?」その目に瞬くは揶揄いか、……或いは?
 ともかくそれは名前にとって己を責めるようなものであった。見透かされている。そんな気分に陥らされるものを快く受け入れられる人間が果たしてこの世にいるだろうか?

「……私のことはいいのよ。それより応援に行くんでしょ!早くしないといい場所取れないわよ」

 言い訳がましく。取り繕うにはあまりに露骨。されど名前にはそうする以外術はないからしようがない。
 ーーこれ以上この話題を引き摺らせてたまるもんですか。
 平静を装い、名前は天化の背中を押した。それは彼の意識を逸らす目的もあったし、単純に自分の顔を隠すためでもあった。ともすれば熱を帯びてしまう頬を。探してしまう眼差しを。隠すためにも、と名前は人波を掻き分けていく。

「はいはい、お嬢様の仰る通りに……ってな」

「それバカにしてる?ねぇ、バカにしてるでしょ絶対!」

「してないしてない。考えすぎさ」

「ま、またそうやって……っ」

 交わす言葉の軽快さ。揶揄われているのだとわかっていても、不思議と腹は立たない。他の者ではこうはいかないのだが。
 それは慣れか、はたまた彼が特別であるが故か。同い年の幼馴染み。家族であり友であり好敵手である人。故にか、噛みつきながらも名前が彼から離れることはない。とはいえ抗議の証とばかりにその背を叩くことは止めないが。
 二人きり。かしましく言葉を交わす名前たちであったけれど、覚えのある声に呼び止められ、足を止める。

「名前に天化、仲良く観戦か?」

「なっ」

 ようと片手を挙げる姿。気のいい青年にしか見えないが、それはあくまで仮の姿。正体は西岐の軍師である彼は、乱世だというのに呑気な顔でこの大会を開いたのだった。
 ーーそれがわからない。何故今こんなことを始めたのか。疑問に思った。確かに、初めて聞いたときは。
 けれど今。その疑問は霧散した。『仲良く観戦』その言葉により。

「おお、師叔じゃねーか。どうだ、儲かりそうか?」

「まぁ見ておれ。何せわしの策は完璧だからのう……」

 咄嗟に否定しようとした名前だった。仲良くなんてないわと。羞恥を隠すために何時もの如く声を張るつもりであった。
 のだけれど、その口は傍らに立つ幼馴染みによって阻まれた。それも物理的に。塞がれ、もがくが天化は少しも気にしない。

「……ちょっと!!何してくれてんのよ苦しいじゃない!」

「あぁ、わりぃ。ちょうどいいとこに名前がいたもんだから」

「人の口を塞ぐのの何がちょうどいいのよ!」

 やっとのこと。拘束から這い出た名前に、天化は朗らかに笑う。その眩しいばかりの顔といったら!疚しいことなんて一片もありませんって風だ。どこにも影の落ちる様子はない。

「……もういいわ、貴方の気紛れには付き合ってらんないもの」

 最後に折れるのは何時だって名前の方。がくりと肩を落とし、溜め息を吐く。
 疲れきったという雰囲気。しかしそれを見た太公望は何故だか感心したような声を洩らした。

「本当におぬしらは仲がよいのう……」

「まぁ長い付き合いだからな」

 答えたのは勿論天化だ。同じことを名前が思ったとして、それを口にすることは絶対にない。内心では「そうね」と首肯していても。表では不承不承といった表情を露にするのだった。

「だからちっせー頃から名前のことはよく知ってるし覚えてるさ」

 そこまではよかった。そこまでならよくある世間話。しかし天化はその続きを語ろうとしてしまった。
 「例えば昔っから白馬の……」王子様に、と。音が言葉になる寸前、今度は名前が彼の口を塞いだ。

「何言い出してんのよ!それは内緒って言ったじゃない!!」

 その口を手で覆い隠し。それだけでは飽きたらず、名前は眼前に詰め寄った。それこそ鼻先が触れるほど。息が掠めるほど。顔を寄せ、その濡れたような黒の瞳を睨めつけた。

「そうだったか?」

「そうよ!二人だけの秘密って小さい時にも言ったわ!!」

 絶対に顔が赤い。だって涼やかな秋の日には相応しくないほど熱を感じているのだから。
 白馬の王子様に憧れていた。それは名前にとって禁句もいいとこ、特に太公望には知られたくなかった。子供みたいだ、と余計にそう思われそうで。
 それだけはどうしても避けたかったから。

「……そう隠されると気になるのだが、」

「いいえ、貴方が気にするようなことじゃないわ!」

 張りつけるのは引き攣った笑み。けれどないよりはマシと取り繕い、名前はそっと天化の手を引いた。

「そ、それじゃあ私たちはこれで!」

 引き留める声があった。……ような気がする。
 が、どちらにせよ名前には関係のないこと。彼が何を言おうと名前はそそくさと立ち去る他ないのだから。

「どうしたんだよ名前、逃げるなんてらしくねぇさ」

「逃げてないわよ!ていうか貴方、昔話なんて師叔にしないでよね、恥ずかしいじゃないの」

 太公望から距離を取り、人垣を越え。観客席に辿り着いた名前は再度抗議の意を示した。その頬をつねることで。怒りを示すのだが、天化は愉快そうに笑うばかり。

「そう過剰に反応されると余計話したくなるのが人情ってもんさ」

「そしたら心中ね。貴方を殺して私も死ぬわ」

「熱烈だな」

 くつくつと肩を揺らす彼の隣。名前は今後を思って頭を押さえた。
 太公望の前であからさまな弱点を曝してしまった。彼は軍師だ。そして彼と名前はお世辞にも良好な関係とは言いがたかった。
 これが示す未来はひとつ。

「間違いなくゆすられるわ……」

 脅迫材料にされてしまう。青ざめた名前は、この後出来るだけ太公望を避けなければと胃を痛めた。
 ーーやっぱりあの時あの瞬間、運命だと思ったのは錯覚だったのだ。
 格好いいと思ったのが間違い。こうして実際に相対してみればよくわかる。彼ほど白馬の王子様に遠いものはない。だからあれは気の迷い。ここのところ頭を悩ませていた問題も、そう答えを与えてしまえばすっきりする。

「……、」

「ん?どうした?」

「……いいえ、」

 そのはず、なのに。
 未だ脳裏からあの日見た輝きが消えないのは諦めが悪いからだろうか。彼を見かけるたびに心臓が跳ねるのは運命を期待しているからだろうか。
 さ迷える心に、名前は深々と息を吐いた。



 そんなことばかりを名前は考えていた。象レース、それが始まるまで。いや、始まってからもーー決着がつくまでは。
 しかし答えのない問いに縛られる名前ですら我に返るほどの光景が目の前には広がっていた。
 行き場を失った象。砕かれていく城壁。立ち上るのは土埃で、響くのは悲鳴だった。
 まさに混沌。そのただ中にあって、名前は大きく嘆いた。

「あの方たちは本当に……」

 何をやっているのか、と。馬鹿げた騒乱に頭が痛くなること一頻り。されども傍観に徹するわけにもいかず。

「こいつはやべえさ、行くぞ名前!」

「わかってるわよ!!」

 それは自身の手を引く天化のせいでもあったし、名前自身の性質によるものでもあった。ともかく他に選択肢はなかったのだ。
 名前は自棄のように応え、天化と共に駆け出す。
 そうして二人は暴れ馬もとい暴れ象たちを捕らえ、宥めすかし。

「あれ、師叔はどこ行ったさ?」

 その後で。無惨な姿となった競技場にて、天化がふと辺りを見回す。彼の台詞。それが指し示す人物を名前も慌てて探すがーーどこにもいない。

「荷物をまとめてラスベガスに夜逃げしたっス」

 答えをくれたのは霊獣、四不象だった。彼は姫発と太公望が揃って行方を眩ましたのだと教えてくれた。
 これに周公旦は静かな怒りを滲ます。何せ彼らのせいで可愛がっていた象たちが傷ついたのだ。おまけに西岐城は半壊。被害総額は途方もない金額になっていた。

「やっぱり錯覚だったんだわ……」

 名前はほっと息を吐く。それは安堵のもの。これで彼に振り回されることもないのだと。
 ーーしかし。

「……、」

 安堵した側から、けれど心はすぐに彼を想った。王子様とは程遠い彼のことを。意識から切り離すことがどうしてもできなかった。