拍手喝采。広がる歓声。それは波というより爆発であったから、名前はびっくりしてしまった。だって名前はただ跳んだだけだったから。
「すごい」「さすが」生徒はそう口々に言って手を叩くし、教師は「新記録じゃない?」と呆気にとられている。それを見て、ようやく自分のしでかしたことに気づいた。やってしまった。天を仰ぐが、時すでに遅く。名前は2メートルに設定されたバーを見上げ肩を落とした。
「陸上部入りなよ」真っ先に駆け寄ってきたショートカットの少女が名前の背を叩いた。「その才能はいかさなきゃもったいないって!」きらきらした目。「走高跳び、やろう!」未来への期待に輝く少女。その思いを踏みにじるのはたいへん心苦しいが、それでも。
「ごめんなさい、部活に入るつもりはないんです」
演技でもなんでもなく、ほとほと困り果てながら名前は断るしかなかった。
「ほんっとーになんでもできるよね」
昼休み、クラスメートに溜め息をつかれた。「スポーツはずば抜けてるし頭だって悪くないし」放り出された教科書。転がるシャープペンシル。5限目の課題が終わっていない教えてくれと言うからそうしていたのに。隣の席の彼女はすっかりやる気を失っていた。
「わたしなんてまだまだですから」
名前は眉を下げた。
卑下でもなんでもなく自然と思う。なんでもできるというのは透のような人のことを指すのであって。というよりむしろ彼以外いないだろう。もし他にそんな人がいたら世界の天秤は傾いてしまうもの。本気で名前はそう思っていた。
「まだまだってのは、例のお兄さんのこと?」
転校当初からの付き合いであるクラスメートは察しがいい。「ほんとに好きなんだねぇ」さっぱりしたところのある彼女はどこか呆れぎみだ。
「変なファンクラブみたいなのがある名前のレベルでまだまだって、お兄さんはどんだけ化けもんなのって感じ」
「宗教の教祖様とか?」などとからから笑っていたが、名前が「もし宗教家になるならもちろん着いていきますよ」と言うとさすがに真顔になった。
「いや、さすがに引くわ」
無理無理。あり得ない、と手を振るクラスメート。けれど名前には彼女の感覚の方が理解できない。
だって。
「好きってそういうものでしょう?」
首を傾げると、彼女は目を見開いた。鳩が豆鉄砲食らったみたいな、そんな顔。なんだか二人の間には大きな溝があるようだ。齟齬。ズレ。なんでもいいけど、そういった類いの。
「うーん……これは勝てないな」
ご愁傷さま、と彼女は呟いた。それはクラスメートの男子に向けたものだったが。「何が、なんて聞いちゃダメだからね」好奇心に釘を刺されたので、名前は素直に頷いておいた。
「そんなに言うんなら1度見てみたいもんだね、アンタのお兄さん」
そんな彼女の要望は案外すぐに通った。
「…………」
にこにこにこにこ。
主婦然とした女性たちの中に紛れ込む青年。それだけでも目を引くというのに、彼は秀麗な笑顔を惜し気もなく披露している。おかげで父兄は話をやめないし、それにつられた生徒は授業に身が入らないし、教師はひたすら困惑するばかりであった。だが彼の方は周囲のざわめきなど耳に入らないといった様子で。ちらりと振り返ると、「がんばれ」と口だけで応援された。まったく、何がそんなに楽しいのか。
だいたい、どうして透が授業参観に出席しているのだろう。連絡の手紙は配布された。しかしそれは生徒宛であり、黙っていればバレることはない。
もちろん名前は処分した。だってそんな行事を知ったら透は絶対に気を遣う。名前が学校で浮かないように、自分の時間を削る。ただでさえ忙しい彼にそんなこと求められない。
だからわざわざシュレッダーにかけて学校で廃棄した。念には念を。今日だって何食わぬ顔で家を出てきたはずなのに。
「あの人、もしかして」
隣の席からの耳打ち。クラスメートに名前は肯定の意だけ返した。この状況が名前の本意でないことはその表情から読み取れたのか。
「……おつかれさま」
同情の目を向けられてしまった。
「……はぁ、」
一コマだけ見学して、透は帰っていった。
襲う疲労感。授業らしい授業など成り立たなかったというのに、いつもよりずっと疲れていた。
脱力して、名前は机に体を投げ出した。頬に当たる机の冷たさがいやに心地いい。
「いやぁ、すごかったね」
隣に顔だけ向ける。頬杖をついた彼女はにやにやと笑っていた。「想像以上だった」そこに色はない。だから名前は安心して話すことができた。
「お兄さま、美しかったでしょう?」
「いやなんで美醜の話になるのかわかんないけど」
まぁ確かにきれいな顔してたね。客観的に。感情を含まず。彼女が評するものだから、名前は嬉しくて笑った。
「あんなに気高い人はいませんから」
あきらかな自慢。それは彼女が相手だからできるものであって。「すっごいイケメンだったね!」なんてハートを飛び散らせてる少女には口が裂けても言えない。名前と彼の繋がりを知ったら彼女たちはこぞって彼を求めるに違いない。そんなの、悔しすぎる。悔しいし、もどかしいし、ぐちゃぐちゃになってしまう。
だから、今日のことは二人だけの秘密。「約束ね」と小指を出すと、彼女は応えてくれる。
「でもまぁ、名前が変わったのはあの人のお陰だって分かったよ」
名前の髪をとかしてやりながら、彼女は含み笑う。
変わった?私が?どういうこと、と視線で訴えると「気づいてないの?」と目を丸くされた。
「最近、すっごく雰囲気柔らかくなったって」
たとえばほら、前だったらこんな風に髪を弄らせることもなかったでしょ?それに私たちの前でさっきみたいに気の抜けた格好しなかったし。
彼女の言葉は的確だった。いつからか。今言われるまで気づかなかったけれど、心当たりはある。
きっと、変わったのは透を好きになってからだ。彼を好きになって、人間に憧れて。きっと、だから。
「ふふっ」
嬉しくて、名前は口を押さえた。そうしないとにやけてしまいそうだった。
「なに、急に笑いだして」怖いよ、とふざけた調子で言う彼女を振り仰いで。
「彼のことが好きだと痛感したの」
頬を赤らめてはにかむ顔は、まさに恋する乙女。この後、名前のお兄さまへの想いは、やたら人脈のある彼女の口で方々に喧伝された。
「その方が面倒も減っていいでしょ」
色々忠告もしてあげたから安心してね。後日、彼女はそう報告してくれたのだが名前は気のない返事をするしかなかった。でも彼女のすることだから問題はないだろうと、お礼と共にお菓子を献上しておいた。
透が授業参観に来た理由については結局分からずじまいに終わった。情報の入手経路はたぶん毛利家あたりだろうが、なぜ忙しい合間をぬってまで来たのかは不明のまま。
ただ件の彼女が広めた話について報告すると、「やっぱり」と言った。
「名前はいい友達を持ったね」
満足そうな透に、名前の中で疑念が浮かぶ。もしかして、何もかも透の思った通りに運んだというの。
「さぁ、どうかな」
透ははぐらかすし、何を計画していたのかももはや知るよしもないが。
透はやっぱりすごい。改めてそれを実感した名前であった。
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お題箱より。ありがとうございました!
ほぼモブで申し訳ないです。
ファンクラブ云々は描写としては過剰かなと思いましたが、ギャグということでお許しください。
一応世良ちゃんとの絡みも考えたのですが脱線するので断念しました。そっちのネタもそのうち番外編で書きます。