雪の女王W


 目の前に聳え立つ白亜の城。繊細な装飾と神話を描く彫刻。その荘厳さに私は思わず息を呑んだ。
 たぶん圧倒されたのだ。あんまりにも非現実的で、まるで物語のよう。私はバカみたいな顔をして、切り出された氷のようなお城を上から下までまじまじと見つめた。

「ここに彼はいるのよね……」

「あぁ、その通りさ」

 なんだかすっごく気が引ける。場違いって感じだ。そう思ってしまってから、私は慌てて首を振った。

「どうかしたかい、名前?」

「う、ううん、なんでも……」

 自分の中に沸いた感情。それはまさしく青天の霹靂。
 場違いだなんて、そんなの考えたらいけないこと。いくら彼が王子様になったからって、彼が彼であるのに変わりはない。変わりはないのに、どうして私はそんなことを思ってしまったのだろう?
 彼がどんな姿になったって、私は追いかけなきゃーーそう、追いかけなきゃいけないんだ、どうしてだかわからないけれどーーそれが自分のすべきことで、絶対に曲げてはいけないんだって強く思う。
 それは私自身が、というより何か大いなる存在に命じられたことのように感じられた。生きるためと意識せずとも呼吸をするのとおんなじで、ともかく私はこの旅を完結させなきゃならないのだ。

「なんでもないなら早く行こう!名前、君の王子様がお待ちだよ!!」

「……うんっ!」

 カラスが案内したのは秘密の抜け道というやつだった。曰く、「王家に代々伝わる代物」なんだとか。

「どうしてあなたがこんなの知ってるの?」

 浮かんだのは当然の疑問。上にも横にも狭い通路をやっとのことで通り抜け、ほっと息を吐いた時だった。
 私は暗闇の中で琥珀の瞳を探した。あの印象的な色を。どこか魔的なそれはしかし闇に紛れて行方知れず。どれだけ辺りを見回しても行き当たらない。が、声だけはする。声ばかりが反響する。

「知っているから知っているんだよ」

「それじゃあ答えになっていないわ」

「いいや?」

 石造りの壁に跳ね返り、跳ね返り、まるでこの空間自体が喋っているかのよう。
 「……、」私はなんだか怖くなった。急に足元が頼りなく思われた。私が立っているのは本当に地面の上なのか、本当の私はもっと違う場所にいるんじゃないかーーそう、本当はーーそんな風に思えてならなかった。

「僕はそれが役割なんだ。だから知ってる、これから君をどこに連れていけばいいのかもね」

 不安に陥る私を笑うかの如く。だのにやたらと優しい声音で、シロップを溶かしたんじゃないかってくらいの甘さを抱えたまま、カラスは囀ずる。
 私はきゅっと唇を噛んだ。わけのない恐怖は消えない。自分がどこか遠くへ連れ去られるような感覚。一歩、踏み出すごとに何かが変わってしまう。そんな予感があった。
 私は首に下げたロザリオを握った。「……天にましますわれらの父よーー」そう呟いてみたけれど、足元に広がる闇が引くことはない。そのことになんだかいやにがっかりしたけれど、仕方のないことだとも思っていた。
 私は捨ててきてしまった聖書のことをぼんやりと思い出した。それから父と母のことを。小さい頃からずっと見上げてきた十字架の道行を思い出していた。

「それ、なんだい?」

「……おまじないよ」

「ふぅん?」

 でも私は「わかったわ」と頷いた。止まっていた足を動かして、壁伝いに歩き出した。暗闇の向こう、まだ見えぬ光を『視た』。つまりはそう、『彼』のことを。思い描くことで、私は言い知れぬ不安を振り払った。

「ここで待ってて」

 それから何時間が経ったろう。たぶんそんな長い時間は要していないだろうけれど、私にはとてもとても長い一日が終わったように感じられた。
 でも確かなことはわからない。相変わらず辺りは暗く、明かり取りひとつない。ただ先刻まで潜っていた通路のようなカビ臭さと埃っぽさはなく、私はようやく安心して息を整えることができた。
 小さな部屋だった。カラスは一言だけ置いて、いずこかへと飛び去っていった。私はひとりおいてけぼり。少し寒いなと思って、自分の体を抱き締めた。
 暫くは沈黙があった。その頃には目も慣れ、朧気ながら部屋の中の様子が窺い知れた。
 私は手探りで室内を探った。小部屋だと思ったのに間違いはなく、調度品もベッドとテーブルくらいなもの。その上にランタンらしきものがあって思わず手に取ったけれど、灯りをつけるものが見当たらず、私は肩を落とした。

「お待たせ、……どうしたんだい?」

 響いた声が存外に近く、私は小さく声を上げる。でもそれが最早聞き慣れた音であるのに気づき、私はランタンの話をした。
 するとカラスは「なんだそんなこと」と言って、ふぅ、と息を吐いた。

「わぁっ、……すごい」

 途端、揺らめく炎。透明なガラスの中でオレンジ色が燃えている。
 カラスは私の肩に止まると、賛辞にぱちりと目を瞬かせた。

「そんなに驚くこと?」

「驚くわ、だってこんな魔法みたいなこと、初めて見たもの」

「みたいじゃなくて魔法そのものだけど……そっか」

 私は「ありがとう」と言って、カラスの小さな背を撫でた。
 それが正しいやり方かはわからなかったのだけれど、カラスが嫌がる素振りは見せなかった。ただむず痒そうに嘴で毛繕いをした。その仕草が妙に可愛らしく、私はいつの間にか寒さを感じなくなっているのに気づいた。

「どこに行っていたの?寂しかったわ」

「ごめんよ、王子様のところに行ってたものだからさ」

 王子様。その単語は私の体に緊張を走らせる。期待と不安。期待の方が大きめだけど、やっぱり言い様のない不安も沢山ある。彼が私を覚えているのかとか、私のことを嫌いになってはいないかとか。
 そういうものが心の中でぐるぐるして、泣きそうになる私をカラスは慰めた。

「大丈夫、王子様がお姫様を拒絶するはずがない」

「うん、……うん、そうよね」

 この時ばかりは否定しなかった。私がお姫様。そうだったらいいなとさえ思った。
 彼の特別だったらどんなに幸せだろう。父にとっての母みたいに。私にとっての彼みたいに。お互いがお互いの特別だったらーーそうだ、私はそうしたものにずっと憧れていたんだ。神様の平べったい愛じゃなくて、小さくて深い愛が欲しかったんだ。ずっと小さな頃から、私はーー私は、きっと、それだけで救われるのだろう。

「でも私、王子様に会えるの?」

 私は自分の格好を見下ろした。『先生』が用意してくれた洋服はしっかりとした造りだけれど、やっぱりこのお城には馴染まない。だからといって私にどうすることもできないのだけれど、それでも気にかかって私はカラスに訊ねた。

「大丈夫、……でもちょっと時間がかかるみたい」

 カラスは「名前のせいじゃないよ」と器用にも私の髪を嘴で撫でた。

「王子様の方が心の準備が整わなかったんだ。だから少しだけここで待っててくれる?」

「私は平気よ、いくらだって待つわ」

 なんだかドキドキしてきた。それからここまでの道のりを思い出した。彼がいなくなったこと。私があの街を去ったこと。川を下ったこと。煩雑な街の大きな教会に身を寄せたこと。彼のことを思い出にして平坦な日々に埋没していったこと。
 ーー思い出にして?

「待っている間にお話をしようって。王子様は君と文通がしたいらしいよ、君のことが知りたいんだってさ……って、名前、聞いてるかい?」

「えっ、えぇ聞いてるわ、えっと……文通よね、わかった、すぐに書くわ」

 カラスの声で我に返る。そうするとそれまでの思考は水の泡。泡沫となって弾けて消えてしまう。確かに何か、引っ掛かりを覚えたはず、なのだけれどーー。
 けれどカラスの不思議な目にじっと見つめられるとその違和感すらも溶かされていく。やがて私は考え込んでいたのも忘れ、カラスの導きのままにペンをとっていた。