太公望、戸惑う


 久方ぶりの西岐。記憶よりも澄んだ空気を吸い、太公望は懐かしさすら覚える城内を歩く。
 大騒動となった象レースからおよそ一月。逃亡先のラスベガスで一山当て、借金返済の目処が立ったことで、太公望と姫発は漸く西岐へと帰ってきたのだった。
 ……まぁ姫発に関しては、未だ周公旦にみっちり絞られているところなのだが。
 ともかく情けなく助けを求める姫発を見捨て、太公望は周公旦の部屋を辞した。
 そうして太公望が足の赴くままに至ったのは。

「おー師叔、久しぶりさ。どうだ、ヤツの説教を食らった気分は」

「あれは中々の攻撃だな、耳が使い物にならなくなるかと思ったぞ」

「大丈夫大丈夫。師叔の耳はちゃあんとついてるさ」

 象レースの競技場……であった場所。そこは騒動の直後に修繕の手が入ったらしく、今ではもうあの事故が嘘のように整えられていた。
 といってももう象レースは開催されない。そもそもレースにならないというのが判明したし、何より周公旦がこれ以上象への暴挙を見過ごすわけもなかった。
 その代わり、競技場は馬専用のものに作り替えられた。折角人の手で作ったもの、すぐに取り壊すのは心が痛む。が、象はもう使えない。とくれば馬にお鉢が回ってくるのは必然と言えた。
 そんな曰く付きの競技場にいたのは天化だった。彼は太公望を見つけるや否や、片手を挙げた。浮かぶのは何時もの気のいい笑み。そのままに、周公旦の説教に窶れた顔をする太公望の背を思い切り叩いた。

「それで?おぬしはこんなところで何を?」

「そりゃあ……ほら、あれさ」

 気を取り直し、向き直る太公望の後ろ。天化はその先を指差し、意味深に口角を上げた。
 その笑みの理由。そして瞳に宿る色とは?
 ……新たな疑問は彼の視線を辿ることで太公望の中から霧散した。
 それは光だった。
 陽光を食んで煌めく蜜の色。風に靡く金糸はとろりと零れた蜜としか言いようがない。他にも人影はあるのにーー同じように馬を手捌く者はあるのにーーそれなのに天化が見詰めるものを瞬時に諒解することができた。
 だってそうでなければ理由がつかない。彼の目がこんなにも眩しそうなのも。深い色をしていのも。そうでなければ納得のいかぬものであった、から。

「…………」

 だから釣られてしまった。感染した。当てられた。そうとしか思えない。目を奪われるのも、言葉をなくすのも。
 らしくないことをしたーーと気づいたのは、光の主が太公望たちを認めてからだった。
 円を描いて駆けていた栗毛の馬。故に距離はやがて縮まり、馬上の人も知人の姿を認める。つり目勝ちな琥珀の目。それが太公望を認め、見開かれる。

「帰っていたのね、師叔」

 どうどうと馬を宥め。そうして器用にも太公望たちの前で立ち止まり、阻む柵ぎりぎりのところで少女は地に降り立つ。片手に「太公望だ!」と目を輝かす少年、天祥を抱いたまま。
 そんな少年を天化へと渡し、馬を柵に繋げて、それからやっと名前は太公望に声をかけた。

「あぁ。たった今、周公旦のお説教から逃れてきたところだ」

「最後まで聞いてあげなさいよ。彼、すっごく胸を痛めていたんだから」

「もう飽きるほど聞いたぞ。それにわしの分も姫発が聞いておいてくれるだろう」

「……可哀想に」

 この段になって。太公望は「おや」と思う。
 不在は一月。短くはないが長くもない。変化が訪れるにしてはあまりに急。だが名前の様子は太公望の記憶とはどうも繋がらない。以前であればもっとーー苛烈な感情を露にしていたのに。
 だというのに今の彼女ときたら!すっかり牙を抜かれた風だ。太公望に呆れこそすれ、言葉を荒げることすらない。何やらすっきりとした面持ちとさえ感じられた。

「それよかありがとな、名前。今日も天祥の練習に付き合ってくれて。……ほら天祥、ちゃんと礼は言ったか?」

「ありがとう、名前姉ちゃん!」

「いいわよ、そんな。それに天祥は覚えもいいし、私も結構楽しかったわ」

 考える太公望を他所に、名前は天化や天祥と言葉を交わす。その異国めいた容貌に浮かぶ微笑。慈愛を籠めた眼差しは太公望には覚えのないものだ。
 だからーーだろうか。

「……?どうしたの、何か用?」

「ん、……あぁ、いや。そういえば姫発がおぬしに会いたがっていたのを思い出してな」

 知らぬ間にーー手繰る指先。掴んだのは少女の袖口。迷い子のような仕草で彼女を引き留めてから、太公望は己に笑った。
 何をしているのだろうか。ーー寂しいと、思ってしまうなんて。
 友愛でもなく敵愾心でもない。かといって無関心なわけでもなく。ただただ穏やかなーー空虚。いつの間にか立てられた透明な壁に太公望は知らずたじろいでいたのだった。関心を引きたいあまりに、関係のない名を持ち出すほど。

「姫発様が?……なんだか嫌な予感がするんだけど」

「絶対大したことねぇ話さ」

 その名に。いい思い出がないと名前は顔を顰める。天化も天化でどうせ些事であると肩を竦める。……まぁ、その通りではあるのだが。
 姫発が名前に会いたがっていたのは事実。そしてその理由が『旦などよりプリンちゃんに叱られた方がずっといい』というなんとも下らないものであるのも、また。姫発にとっては名前の容姿やきつい性格等々、引っ括めて全てが好ましく映るらしい。なんでも足蹴にされるのさえ幸福なのだとか。

「そう言ってやるな。おぬしを気に入ってるのは確かなのだから」

 太公望にはわからぬ感情だ。理解はすれども自身に置き換えることはできない。
 けれど彼の話を持ち出したのは己であるのだから、と太公望は姫発を擁護した。此度の苦難を共に乗り越えたという連帯感もあったのだろう。

「ふーん、……そう、」

 が、それが癇に障ったと見え。名前はつまらなそうな声を洩らし、目を伏せた。これでは感情を窺い知るのすら難しい。ただ声の調子が落ちたのだけは感じ取れたから、気分を害したというのは察しがついた。
 そこで太公望は内心身構えた。
 ーー何が琴線に触れたのか。わからないが、彼女の機嫌が急降下したのだけは伝わってくる。
 だが彼女はそれを表にすることを厭った。というより、呑み込んだ。何事か。言いかけ、思い直す仕草をして首を振った。

「ま、久しぶりだし今日は大目に見てあげるわ。お仕置きされてお疲れでしょうし」

「随分寛容だな」

「私だって鬼じゃないのよ。セクハラされなきゃ怒ったりしないわ」

 意外、と目を瞬かせる天化。その隣で名前は微笑さえ浮かべていた。以前はあんなにも矜持を傷つけられたと怒っていたはずなのに。
 しかも、驚くべきことはそれだけではない。

「……貴方にも、色々迷惑かけたわね。悪かったわ、ごめんなさい、」

 名前は。あの気位の高い彼女が、素直に謝罪を口にしている。申し訳なさと恥ずかしさ。ない交ぜになった複雑な顔で、彼女は太公望に頭を下げた。

「い、いや、」

 慌てたのは太公望だ。違和感は確かにあった。心境の変化。何があったかは知らないが、彼女の中で何かが起こったのは間違いない。
 ーー歓迎すべきことだ。嵐が鳴りを潜め、平和になるなら万々歳。これからのことを考えれば喜ばしいとしか思えない。
 ……そのはず、だったのに。

「……おぬしもやっとわしの格好よさに気づいたか!感心感心。これからはわしを主人公として崇め奉るといいぞ!!」

「かっこ……!?んなわけないでしょうバッカじゃないの!」

 途端、さっと朱が走る。その円やかな頬に。白々とした膚に。明かりが灯り、太公望を睨めつける目。とろりとした琥珀が燃えるようなのを見て、何故だか太公望は安堵する。……そう、何故だか。
 余計な言葉だった。何も怒りを引き出す必要などなかった。なのに太公望は敢えてその言葉を口にした。彼女が噛みつくと予想がついていて。……いや、わかっていたからこそ。
 以前と変わらぬ反応に安堵したのだった。

「あぁもう!せっかく忘れられそうだったのに、……」

「忘れる?何を?」

「なっ、なんでもないわよ!」

 叫ぶ名前に天化は後ろから「どうどう」と宥めかかる。暴れ馬にするように。そうされることにも苛立ちそうなものだが、しかし名前はぐっと唇を噛んだ。

「〜〜〜もうっ!」

「お、どこへ行くのだ?」

「姫発さまのところよ!貴方が言ったんでしょう!?」

 吠えた名前は、身を翻す。怒り心頭。そんな様子なのに、天祥は気にすることなく笑いながら彼女に着いていく。自身を慕う純粋な姿。さしもの名前も怒りを静め、穏やかな顔を作る。

「なぁ、師叔……」

「なんだ天化」

「あーたは名前を……、」

 二人の後ろ姿。それに目を馳せ、それから天化は。
 太公望に、視線を走らせた。
 窺うように。……探るように。見る瞳。黒々とした深淵は何か言いたげな色をしている。それほどに真剣な、真剣すぎる眼差し。
 けれど天化は「いや、なんでもねぇさ」と首を振る。

「そうか、ならば早くあやつらを追いかけた方がいいぞ?またわしがどやされる」

「違いない」

 彼が太公望に聞きたかったこと。それを察していながら、太公望は彼の出した答えを受け入れた。何も言わず、何も聞かず。そうして駆けていく天化を見送った。

「…………、」

 仲睦まじげな三人の影。それを見る太公望の心中とは?……それは本人ですら曖昧模糊として。らしくないことに太公望は溜め息を吐くしかなかった。