幻太郎と彼女の場合
ガタン、と。揺れて、列車が停まる。
顔を上げると寂れた看板が目に入る。知らない地名、知らない場所。ちいさな無人駅はしんと静まり返っていて待つ人もいない様子だった。
「降りますか?」
ボックス席。なのに隣り合う形で座っていた人が訊ねてくる。揺れる榛。間近で瞬く翡翠の光。それは尊く美しいものだった。
名前は首を振る。「いいえ、もう少し、このままで」降りるのは次の駅にしましょう、と名前は言う。
けれど名前自身次があるのかはわからなかった。もしかしたら辿り着く前に露と消えてしまうのかも。第一、次の停車駅がなんという名前なのかすら名前は知らなかった。
それでも幻太郎は気にしない。「そうですか」それだけ言って、また手元に目を落とす。
膝の上で広げられていたのはありふれたサイズのキャンパスノート。本当は原稿用紙の方が具合がいいのだけれど、今はしようがない。持ち運びには不向きですから、と彼はほんの少し困った風だった。
ノートには形のいい文字が並んでいた。所々書き加えたり消したりした形跡の残るノート。隙間なく書かれるのは彼の世界。尊く美しい、永遠の物語。
ガタン、と。揺れて、列車が動き出す。停まっていたのはほんの僅かな時間。ここにも永遠はなかったのだ。わかっていたことだけれど、それがひどく悲しかった。
名前はまた視線を窓の向こうに投げ掛けた。ゆっくりと移ろう景色。東京では見られない田園風景。車窓では、騒乱が嘘のように穏やかな時が流れている。
「あ、……もう秋なのね」
遠くの山。緑ばかりと思っていたそこには赤や黄色が息づいていた。
ーー美しい景色だ。
名前は夢想した。秋の山。歩くたびカサカサと鳴る落ち葉の絨毯。乾いた土と葉っぱの匂い。心の澄み渡る清々しい空気。差し込む日差しまでも黄色く色づき、頬を照らす。
「こんな美しい風景も奪われてしまうなんて。神とはなんと無情なものでしょうね」
空想を裂いたのは冷静な声。皮肉っぽく持ち上がる口角。対象は神か、世界か、それとも己か。
ともかく彼の言葉は夢を壊すのに十分すぎた。現実への立ち返り。引き戻され、名前は不満げに幻太郎を睨めつけた。
「美しいというならそれこそ神の証よ。神は彼方にいるのではない。傍らに寄り添ってくれているの。きっと、最期まで」
「囁くばかりの神など役立たずもいいとこですね」
無神論者を自称する男は神の否定が好物だった。趣味の悪いこと。名前はヘソとついでに口も曲げた。
だというのに、何故今も彼と共にいるのだろう?彼もどうして名前といるのだろう?
誰でもよかった。……わけではない。きっと、彼でなければならなかった。たぶん、きっと。
理由は明確じゃない。ただ、確信だけははっきりと。
「……これもきっと神様の愛なのよ」
「罰ではなく?」
「ええ。だってそれならこんなに穏やかな時があるはずないでしょう?」
下らない問答だ。答えはないし意味もない。神の所在も、運命の理由も。誰にもわからないことだ。
それでも名前は言葉を続ける。終焉に向かいながら、それでもなお美しき世界に目を馳せて。
「猶予があるって素晴らしいことよ。どうせ死ぬのはみんな同じだもの。早かろうと遅かろうと、死ぬのに変わりはない。みんな死ぬために生きている。それがいつのことか怯えながら」
けれど、今は違う。
名前は隣に目を向けた。ノートから顔を上げ、今は名前を映す瞳。それを喪うことを思うと、悲しみが募る。
「終わりがわかっているから、心残りのないように生きられるんだわ、私たち」
それでも名前は自分に言い聞かせるように言った。どうしようもないことだから。理由をつけなければ平静ではいられなかった。諦める理由が必要だった。この運命を幸いと思わなければいられなかった。
「…………、」
彼は答えなかった。代わりについと視線を流した。遠く、先程まで名前が見ていたものへと。
「覚えてます?僕たちがかつて遊んだ日々のこと」唐突とも思える台詞は、色づいた山々を見てのことだった。それで名前にもぴんときた。
「覚えているわ、秘密基地を作ったのよね」
「ええ、森の奥に。今思うとさしたる深さはなかったのでしょうけど」
「それでもあの時の私たちには十分だった」
名前の口元は自然と笑みを描く。
平和だった頃。子供の時分を思い出すのは心穏やかなものだった。たぶん、今から目を逸らすことができるから。
幻太郎も微笑を浮かべて頷いた。
「名前はやんちゃだったから木に登って降りられなくなりましたよね」
「あら、そうだったかしら」
「そうですよ」
彼は確固たる自信を持って言うが、不思議と名前の記憶にはまったく覚えがない。頷かれ、慌てて記憶の引き出しをひっくり返してみても。自身の泣き顔も彼の心配そうな顔もちっとも思い出せやしないのだ。
「……自分自身にすら永遠なんてないのね」
名前は肩を落とした。落ちる声。それは悲しさと寂しさ、秋の風を纏っていた。
記憶。それこそが己を確立するものだ。連続した記憶がなければ自分なんて途端に曖昧なものになる。それはそう、茫洋とした海原に投げ出されたように。
だというのに、それすら時の中では風化する。留めておくことなんてできやしない。想いも記憶も、いずれは全部掌から零れ落ちていく。掬いとろうと足掻いても。どうしたって、永遠には程遠い。
『ーーーー……』
彼が何事か言いかける。それより早く、車内にアナウンスが流れた。ぽつりぽつりといる人影。彼らはどこへ行くのだろう。どこに向かうのだろう。どこへも行けやしないのに。
「終点ですって」
「みたいですね」
「……終わりなんて、なければよかったのに」
このまま。円環を描くように生きていければよかった。何事もなく、代わり映えのしない毎日を送れればそれでよかった。つまらなくたって、それで構いやしなかったのに。
「ですが永遠はありますよ」
ふと、彼は言う。ほんの少し、笑いを滲ませて。
指し示す先は膝上のノート。先程よりも数行進んだ世界は未だ完結とは程遠い。いや、もしかすると彼にはその気がないのかもしれない。名前にはわからない。ただ、彼の言った意味だけは理解した。
「そう、……それなら安心ね」
例え完結しなくとも。物語は永遠だ。その世界が壊されることは未来永劫あり得ない。隕石が降ったって、人類が滅んだって。ノートの中の世界では永遠が約束されているのだ。その中で生きる、名前と彼ならば。
「降りましょうか、次の駅で」
「そうですね、それでまた違う列車に乗りましょう」
「ええ、どこまでも、どこまでも……」
名前は笑み、彼の手を取った。後悔のないように。遠い未来ではなく、今胸にある想いだけのために。