姫発と武官の場合
遠駆けに行こうと、そう誘ったのは姫発からであった。
「いったいどういう風の吹き回しです?」
草原を思いきり駆け抜け、辿り着いた先。適当なところで馬を繋ぎ、しんと静まり返った山道を彼と並び歩く。
なんとも珍しい光景だ。元来活動的な彼ではあるけれど、名前ひとりを連れ出すことは長じた今滅多にないことだった。
「なんだよ、……嫌だったか?」
「いいえ、まさか。嬉しいです、あの頃のようで」
不貞腐れたように、或いは窺うように。言う姿もかつてと重なる。かつて、まだ二人の背丈が同じほどで、身分だとか役目だとかそうしたものから切り離されていた頃と。
だから名前は首を振り、そっと笑む。嬉しい。それは心よりの言葉。でなければこの混乱の時代に仕事を放り出して彼と馬を並べなぞしない。それこそが証で、何にも変えがたい真実だった。
「……ならいいけどよ」
彼が顔を背けるのも声が落ちるのも照れ隠しだ。わかっているから落ちる沈黙も心地いい。
名前は口をつぐみ、彼もまたそうした。
赤や黄色に染まった森。踏み締める落ち葉。からからと乾いた音が規則的に鳴り響く。どこかで鳥の飛び立つ音、動物が草むらを掻く音がする。涼やかな風は穏やかに頬を撫で、木々の合間から差し込む日差しは黄金の午後といった様相だった。
ここにはすべてがあった。何もかもがあって、欠けているものなどひとつもないようだった。そう、永遠すらも。
手に入るのではと錯覚する。してしまう。しかしそれは儚い夢。どうしたっていずれは終着に至る。
「着いてしまいましたね」
「……あぁ、」
道の先。垂れかかる木の枝を潜ると、途端に視界が開けた。行き止まりーー一歩先は崖になっているのだ。
彼は「疲れたな」と言って大木のひとつに寄り掛かった。そのまま座り込んでしまうのを、きっと以前の名前なら咎めたろう。汚れるとかなんとか言って。
でも名前はそうしなかった。頷いて、彼の隣に腰を下ろした。たぶん、そうするのが自然なことだった。今の名前にとっては。
「きれいですね」
「そうだな」
そんな、月並みな言葉しか思いつかない。
辺り一面に降り注ぐ黄金色の日差し。草原も川辺も家屋も、みんなみんな瑞々しい。燃えるような夕映えが命を吹き込んでいた。
「……、」
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんか良い台詞がないかと思ったんだがよ」
何も思い浮かばないと彼は笑う。だから名前も同じように微笑んだ。それ以上のことは必要なかった。
美しいと思う。この邑を。世界を。彼と共に見た景色を。美しいと、二人して思った。それで、じゅうぶん。
「わたし、幸せだわ」
ひとりでに零れた呟き。さぁと木立が揺れ、二人の間を駆け抜けていく。それでも名前の声は不思議とよく響いた。
「あなたがいて、……よかったって思う」
「……そうか、」
「姫発さまは?」
名前は隣を見た。風がはらはらと髪を揺らす。艶やかな髪が泣いたように光を落とす。赤や黄色、やがては冬に至る色を撒き散らす。
それが悲しくないかと言えば嘘になる。込み上げるのは寂寥感。けれど美しいと思うのもまた真実で。
「……わかるだろ、言わなくても」
「ダメですよ、言ってくださらないと。でないとわたしが今ここにいる理由もなくなってしまう。でも、言ってくださったなら……」
遠くで鳥の羽ばたきが聞こえる。美しく色づく木々が寂しげな声を上げる。
しかしそうしたものには目もくれず、名前はただ彼を見た。彼を見て、微笑んだ。
「わたし、今すぐ死んだって構わないわ」
見開かれる目。けれどそれはすぐに憂いを帯び、頼りなく震える。喜びと悲しみ。ない交ぜになった瞳そのままに、彼は呟く。
「……バカだな、名前は」
そう言ってから、「いや」と首を振る。浮かぶのは苦々しい笑み。終焉を厭いながら、けれどしかしそのただ中でしか生まれえぬ感情に間違いなく歓喜する思いであった。
「けど俺も大バカ者だ。お前とだったらどんな運命だって構いやしない。こんなふざけた結末だって最期に隣にいるのがお前なら……それも幸せだって思う」
一緒にいられるのは世界が滅亡するその瞬間まで。それより後に残るのはなんだろう。何も残らないのかもしれないし、そうでないのかもしれない。どちらにせよ名前にわかるのは命が爆ぜるその時まで。彼を想うのも、想われるのも。保証できるのはほんの一時。
でも、それでよかった。今の名前に必要なのはそれだけだった。最期まで彼の隣に在ること、それが至上の幸いだった。
「……なんだよ」
「いいえ?ただ嬉しくて」
名前はくすくすと笑った。笑って、落ち葉の絨毯に倒れこんだ。「おい、」と彼が呼び止めるのも無視して。赤や黄色の波に溺れた。
「気持ちいいですよ。童心に返る……というわけじゃありませんが、なんだか忘れていたことを思い出せそうです」
名前を見下ろす瞳。それは呆れが少しと、残りは疑いとその逆でできている。
けれど名前が黙りを決め込むものだから、彼も根負けしたらしい。観念したような声を洩らし、それから絨毯を揺らした。
「どうです?」
「ま、悪くはないんじゃねぇの?」
「でしょう?」
目を向けるとすぐに視線が交わる。同じ高さ、触れられるほどの距離。幼い頃は当たり前にあったもの。長じた今となっては遠退いていたもの。忘れなければならなかった想い。そうしたものが、まざまざと甦る。彼の瞳に。その中に映る顔に。
「なぁ、名前」
彼は静かに名前を見ていた。かつてと同じくらいの距離で。けれど以前では考えられなかった大人びた眼差しで。名前を見つめ、動く唇すらも今ははっきりとわかる。
「俺、お前のことが好きだったよ」
紡ぐ声は驚くほど澄み渡り、溶けることなく名前の中へと届いた。夏の日差しのような鋭さで、午睡のような穏やかさで。差し込む光を、名前は大事に抱き締めた。
そうしながら、揶揄いを籠めて彼へと問う。
「過去形ですか?」
「……現在進行形で」
む、と顰められた眉間。時間が許すならその皺の数ですら数えてやりたいくらいだ。
途端に不機嫌となった彼に名前は目を細め、そして。
「知っています。だってわたしもあなたのことをお慕いしていましたもの」
想いを告げた。たぶん、今だからこそ。言う必要のないこと、言ってはいけないこと。そうして蓋をしてきた思い出を口にした。
ただそれだけだった。それだけなのに、胸には熱い奔流が沸き上がっていた。微かに感じる彼の温もりすらも愛おしい。
その熱の一片。ほんの一欠片を口にしただけなのに、彼は大きく目を見開いた。それからみるみるうちに頬が緩むのも、それを押さえようとわざと顰め面を作るのもーー好きだ、と思う。
「過去形?」
「いいえ、今も。死ぬまでは、ずっと」
「その先の保証はしてくれないのかよ」
「だってそちら側のわたしが今のわたしと同じかはわからないじゃないですか」
ここは永遠を誓うところだろう。
不満を露にする彼に、名前は笑う。「でも、」笑って、そっと手を伸ばす。彼のそれに。自分よりもずっと大きな手に。触れ、指先を絡める。幼い頃のように。幼い頃よりも熱を籠めて。
「もしその先でも。あなたがあなたで、わたしがわたしであるなら……」
「そうだな、その時はーー」
未来のことはわからない。来世のことなんてもっての他。
それでも彼は名前に応えてくれた。例えその先であっても、と約束するように。
指先を絡め、名前を抱き寄せてくれた。