同じ穴の狢


 次に名前が意識を取り戻した時、船上はしんと静まり返っていた。打ちつける波の音。ウミネコのにゃあにゃあ鳴く声。それ以外は何もない。

「あ、あら……?」

 ゆるりと起き上がり、名前は額に手をやる。ーーなんだかいやに頭が痛む。それに、自分は今まで何をしていたのか。
 ぼうとした意識。そのままに周りを見回す。
 ……と。

「……あぁ、気がついたか」

 ブチャラティがいた。それから、その足元にはアバッキオも。彼もまた名前と同じように顔を顰めていたけれど、名前よりもずっと物分かりがよかった。

「やったんだな、ブチャラティ」

「あぁ、お前たちのお陰だ」

 彼らは名前にはわからない話をする。男同士、深く語らずとも伝わる、そんな雰囲気。
 けれど仲間外れは名前だけじゃなかった。

「っ、いってぇ……、」

「一体……何があったんだ……?」

 ミスタとフーゴ。二人もそれぞれに痛む場所を押さえて悪態をつく。それも致し方のないことだ。何せ彼らはーー、

「……っ、ナランチャ、ナランチャは!?」

 そこまで考え、ふと気づく。思い出す、ナランチャがーー彼が忽然と姿を消したことを。最初からそこにはいなかったみたいに消えてしまった彼のことを。思い出し、名前は狼狽えた。
 彼に、もしものことがあったらーー

「……ナランチャなら無事ですよ、ここで気絶しています」

 慌てふためく名前にナランチャは答えない。いつもならすぐにあの元気な声が追いかけてくるのに。
 なのに今、名前の問いに答えたのは馴染みの浅い声。新入り、ジョルノ・ジョバァーナのものだった。
 少年らしい高さの声。けれどその歳に見合わぬ落ち着いた語調。
 それでも名前は彼の手に抱かれた少年の姿にーー力なく放り出されて体にーー急いで駆け寄った。

「ん、んん……」

 その足音のせいだろうか。幼い顔に皺が寄り、むずがるような声が唇の間から洩れ出す。
 ーーそれは、生きているという何よりの証だった。

「あぁ、……」

 膝をついて、その顔を覗き込む。上下する胸。ぴくりと揺れる指先。睫毛が震え、そろそろと瞼が開く。ーー深い色の瞳が、名前を映す。

「……あれ、名前……?」

 その声が、名前を呼ぶ。それだけなのに、名前は無性に泣きたくなった。

「よかった……!本当に、本当に、……よかった、」

「えっ、どうしたんだよ名前、」

 涙で滲む声。言葉は詰まり、最後は吐息のよう。
 そんな具合で抱き着く名前を、ナランチャはといえば戸惑いがちに受け止めた。その温もり。伝わる体温に、どうしようもなく胸が震える。安堵と、歓喜に。

「……も〜しょうがないなぁ〜〜、名前は泣き虫なんだから……」

「ええ、そうね、ごめんなさい……」

「……まぁ別にいいけどさぁ」

 肩口に縋りつく名前。その頭を撫でる手はひどくぎこちないものであったけれど、名前にはそれで十分だった。今の名前には十分すぎた。
 人の生き死にには慣れたつもりだった。そのくらいのこと、なんてことはない。そう割り切るのが大人になるということだと言い聞かせてきた。ずっと、ずっと。
 割り切れない自分が嫌だった。いつまでも過去のことを引き摺り続ける自分が。……幼馴染みにすら置いていかれる自分が。
 ーー嫌だと、思ってきたけれど。
 けれど、今。この胸に沸き上がる喜びは、愛おしさは、何に例えようもない。大人になりきれなかったからこそ感じることのできる喜びだった。
 だから、名前はーー

「……ゴホン、」

「あのさぁ〜お二人さんよぉ〜〜……二人の世界ってのはヨソでやってくんねぇかなァ〜〜」

 わざとらしい溜め息。それから、嫌みったらしい声。呆れたように名前たちを見るのは勿論フーゴとミスタだった。ジョルノは……何を考えているのだろう。相変わらず感情の読めない顔をしていた。

「あぁ、ごめんなさい。つい……嬉しくって」

「っていうか何があったんだよ、みんなして……」

 とはいえそんな視線で凹む名前たちではない。もうお互いに慣れっこだったから、フーゴもミスタもそれ以上は言わなかった。ただ視線が痛かったから、さすがの名前もナランチャに抱き着くのは止めたけれど。

「あぁ、それなら……」

「それはオレから説明しよう」

 何事か。言いかけ、ジョルノは視線を走らす。アバッキオと二人、甲板に転がる見知らぬ男を覗き込んでいたブチャラティへと。
 そしてその合図を受けた彼は小さく顎を引き、それから皆の視線を集めた。

「単刀直入に言う。こいつはスタンド使いだ。恐らくポルポの遺産が狙いだろう。お前らを始末してオレから在処を聞き出そうって魂胆だったみたいだな」

 ブチャラティの話は単純明快。バカでもわかる説明。必要なことだけを切り出してくれるものだから、名前たちが深く考える必要はない。敵の名前も、スタンド能力も。もうーー必要のないことなのだ。

「エッ!?ってことはオレ、こいつにやられたってことか!?」

「あなただけじゃないわ、ナランチャ。みんなよ、きっと。まぁブチャラティは違うみたいだけど」

 素っ頓狂な声。ナランチャが気にするのは己の矜持。要するに、敵の攻撃をむざむざと喰らってしまったのが納得いかないらしい。
 ブチャラティからの反撃か。首と胴体が切り離されているにも関わらず、どういう仕組みかわからないが未だ呼吸を続ける男。ブチャラティに蹴り飛ばされた頭部が甲板の上を寂しげに転がっていく。
 名前はそれを横目で見送ったのだけれど、そんなことでナランチャの怒りは収まらない。

「クソ……ッ、な、なんか頭痛くなってきた……ねぇ、血ぃ出てない?」

「はいはい、ぼくが見てあげますよ」

 面倒見のいいフーゴが、しかしいまいち労りの見えない雑な手つきでナランチャの後ろ髪を掻き分ける。
 彼が痛いと叫ぶ箇所。まさか変なところを打ったのでは、と名前も心配になり、フーゴの隣から覗き込む。
 が、しかし。

「い……痛て……!ちょっとここ!ねぇ……ここ見てよここッ」

「ああ〜〜できてますねェ〜〜〜、けっこう大きいですよ」

「い……痛て!痛いよォォ〜〜〜ッ!やめてやめて!さわんないで〜〜〜」

 出来ているのはたん瘤。普段のフーゴとの諍いに比べたら大したことのない傷だ。恐らくはスタンドに引き摺り込まれた時に打ちつけたのであろう。

「チクショオオッ!この野郎ッ!よくもやってくれたなッ!コラァ!!」

 だがナランチャは子供のように涙目で叫び、そうしてその怒りを無抵抗に転がる男の胴体へと向けた。
 思いきり蹴り込まれる足。しかもそれは一本だけじゃない。

「このッこのッ」

「この野郎ッ!」

 フーゴとアバッキオまで乗っかって、動くこともままならない体を痛めつける。皆それぞれ怒りはあったのだろう。
 表情を変えないのはブチャラティとジョルノくらいなもの。前者は他に敵影はないか辺りを探っているし、新入りはといえば、冷静に男の持ち物を改めていた。……なんというか、やっぱりただ者じゃない。

「あぁ、もう……コブになってるんだからあんまり動いちゃダメよ。目眩でも起きたらどうするの?今度こそ私、泣きすぎて死んじゃうわ」

「けどさぁ名前……オレは名前を泣かしたこいつを許せないよ」

「それなら私だって同じよ」

 そして名前は困ったような顔をしながらも決して彼らを止めようとはしなかった。
 というのも、結局のところ……名前だって根本的なところでは彼らと“同じ”だったからだ。

「それにしても不思議ね……。見て、アバッキオ。ちゃんと生きてるのに骨も肉も見えないわ」

 名前は足元に転がってきた頭をひょいと持ち上げる。その顔に浮かぶ冷や汗、涙。それは胴体から伝わる痛みによるものだろうか。それとも、現状への恐怖によるものか。
 いずれにせよ名前には関係のないことだ。この男が敵である、その事実だけあればよかった。

「んン〜〜〜ッ!」

「おいおいそんな汚ならしいモン触んなよ。そこらへん捨てとけ」

「あっ、……もう、」

 名前としてはこの不思議な力、ブチャラティの能力についてもっと詳しく知りたいところだったのだけれど。
 しげしげと眺め回す名前の手から男の頭を取り上げると、アバッキオは無情にもそれを投げ捨てた。とはいえ海に、ではないのは温情か。……いや、単に敵の情報が知りたかっただけであろう。アバッキオはそんなに優しくも甘くもない。

「なあ〜〜〜、おい……」

 そして彼の頭はミスタの元へ。眼鏡と釣糸を手にした彼は、日頃からは考えられない冷たい目をしていた。
 男のくぐもった悲鳴を背に、名前はブチャラティを窺った。頻りに辺りを気にする彼を。そして未だ脅威は去っていないのだと察しーー顔を引き締めるのだった。