人類と呼ぶには抵抗がある


 スタートは非常にゆっくりとしたジョギングから。少しして、スピードを上げる。数分後、速度を落としたジョギングに切り替える。この繰り返し。
 早朝。心肺機能を高めるトレーニングをこなしてマンションに戻ると、テーブルの上には朝食が並んでいた。まるで、見計らったかのように。共に寝起きするようになって一週間、安室透は名前の生活スタイルを完全に把握してしまった。

「朝食くらい私が作るのに」

 シャワーを浴びた名前が一番に言ったのがこれだ。恨み言。しかし体は正直なもので、文句を言いながらもクリームスープを飲むのはやめなかった。おいしいんだからしょうがない。生活スタイルだけでなく、食の好みまで覚えられているらしい。

「シリアルは作るとは言わないよ」

「……だって楽なんだもの」

「確かに利点はあるし、未精白のシリアルなら複合炭水化物だから長時間エネルギーを発揮できるけどね」

 そこまで考えてシリアルを食べてはいないのだが。

「でもこっちの方が名前は好きだろう?」

 ……ぐうの音も出ない。だいたい名前だって毎朝シリアルを食べているわけではないし、5日前に朝食で出しただけじゃないか。たった一度、それも平日の朝の話だ。いつまでも引きずらないでほしい。
 そう言いたかった。が、温かな朝食を前にしては何も言えなかった。反抗して取り上げられるのは困る。
 結局、名前は屈服した。胃袋は嘘をつけない。無言の首肯。おっしゃるとおり、あなたのご飯は素晴らしいです。

「今日はFBIの様子を見てくるよ」

 ふと。お堅いニュース番組を見ながら透は言った。テレビの中では痴情のもつれで殺された女性の話を神妙な顔をしたアンカーパーソン――キャスターが読み上げていた。それを熱心な様子で見ながら、透は買い物にでも行くような気軽さで言った。FBIの様子を見てくるよ、と。
 そんなだから、FBIってなんだっけと名前は思った。Federal Bureau of Investigation――連邦捜査局だと気づいたのは、トーストを一口齧ってからだ。
 名前は顔をしかめた。「ほんとうに?」組織はFBIに何度か煮え湯を飲まされてきた。正直、相手をしたくないというのが本音だ。
 すると透はカップをソーサーに戻した。「じゃあ聞くけど、」

「キミは赤井が死んだって信じられるのか」

 ライ――赤井秀一を脳裏に浮かべてみる。邪魔じゃないかってくらいに伸ばした黒髪と不健康そうな隈が目立つ顔。それ以上に印象的な鋭い眼差し。頭の回転は早いし、銃の腕前については文句の付けどころがない。組織の恐れる『銀の弾丸』――通り名を体現したような男だった。
 その赤井秀一が死んだのはつい最近のこと。キールの手で、ジンの見ている前で。彼は頭を撃たれて死んだという。
 しかし、名前としては。

「……脳天に一発喰らっただけで死ぬとは思えない、けど」

 やはり彼がそうやすやすと殺されるわけがないと思うのだ。
 すると透は「そうだろう」と満足げに頷いた。「キミなら分かってくれると思ってたよ」
 ……その信頼はどこからくるのだろう。

「でも一人で行くのは危険じゃ」

「僕がしてやられると?」

 透は片眉を吊り上げた。僕が遅れをとるはずないだろう?そう、ありありと伝わる瞳。

「……それも、考えられないけど」

 名前は肩を落とした。どうもこの男に勝てる気がしない。
 これが自信過剰なだけだったら力づくでも止めようとした。しかしバーボンという男は己の実力の高さを熟知している。それに名前が観察した限りでも、日本にいるFBI捜査官相手に彼が後手に回る姿は想像できなかった。つまり彼を止めることはできないというわけだ。

「赤井の変装をして奴らの様子を窺う、それだけさ。何も心配いらないよ」

 このやる気に満ちた顔!実はシェリーの捜索こそがおまけで、赤井秀一の生死確認の方が本命なんじゃなかろうか。元々仲がいいとは言えなかったが、この執念。何か理由があるのかもしれない。
 とはいえ詮索は名前の仕事のうちに入っていない。じゃあ何をすればいいかって?それも名前には今ひとつ分からない。何の目的があって、バーボンは名前を選んだのか。

「とにかく、名前はいい子にして待っていてくれればいい」

 そう言った彼が、数時間後にテレビの中にいるだなんて誰が想像できよう。帝都銀行が強盗に襲われていると速報が入って、名前がリモコンを落としたのも仕方のないことだ。