思い違いの廻廊


 板張りの廊下は歩くたびにきぃきぃと物悲しい音を立てる。それを風情があると思うのではなく、心許ないものと感じるのは現代人故か。
 ともかく一郎はおっかなびっくりといった足取りで名前の後を着いていく。
 ……一歩、力を入れ違えたら崩れてしまうのでは?
 そんな懸念を抱くほどであるのに、対して名前の足さばきと言えば見事の一言。音さえ立てず、さりとて速さも損なわず。淑やかであるのに躊躇いが一切ない。これが経験値の差というものだろうか。

「そんなに心配しなくても大丈夫、簡単に抜けやしませんって!」

「それはわかってるんだが……どうにも落ち着かねぇ」

「まぁ古いお屋敷ですからねぇ」

 濃紺のお仕着せの裾がさざめく。笑みに、歩みに合わせて。その音が不思議と心地よくて、自然そちらに意識が傾いていく。
 ーーと、次第に廊下の音が気にならなくなっていった。他のものに気を取られていたせいだろう。
 となるともう歩みを阻むものはない。いつしかきぃきぃという音も小鳥の囀りか何かにさえ思えるようになっていた。

「けど嫌いじゃないぜ、こういうの。人の温もりを感じるっつーか」

 鼻孔を擽るは古い木材の香り。褪せた色合いの木枠の窓。年月の深さを窺わせる、柱の黒ずみ。長い時の中で擦れ、色の剥げた様子の床板ですら理由のない郷愁を抱かずにはいられない。
 どこか懐かしい風景。無論一郎にこのような屋敷を訪った過去など存在しないのだが、それは原初の記憶とでも言うものか。本能的なところで心が安穏とした息を吐く。
 ……と、前を行く小さな頭が振り返った。
 花の顏。浮かぶは面映ゆいといった微笑。たゆむ口許は自然な装いで、故にそれが本心からのものであるとわかった。
 
「恐悦至極に御座います!私共の日頃の働きも少しは実になったのですねぇ」

「いやいや、マジにすげぇって。こんなでけぇ屋敷の世話してるなんてな」

「いやですよぅ、もう。そんなに褒めたって……私じゃお賃金を上げられやしませんからね」

「なんだ、残念」

 そんな軽口を叩くこと一頻り。
 されどそんな中も一郎の感覚と思考は鋭敏に活動していた。見たもの、感じたもの。そうしたものを記憶し、入り口からの道順を頭に叩き込む。脳内で見取り図を描こうとする。それはすべてこれから先ーー一人でも邸内を行動できるようにするためであった。
 そのつもり、であったのだけれど。

「……ここ、さっきも通んなかったか?」

 長い長い廊下。それもただ直線に、というのではない。襖戸障子戸で括られた部屋。それを繋ぐ廻廊は右や左に折れ、その度に方向というものを失わされた。
 おまけに増改築を乱雑に繰り返した弊害か。部屋と部屋に挟まれ、人一人通るのがやっとといった有り様の通路があったり。かと思えば、いきなり吹き抜けの広間に出たりもする。建築物の常識といったものが一切通じないのだ。
 だからあちこち歩き回る内、一郎の脳内の見取り図は手の施しようのないところまで来ていた。最早子供の落書き。そんな有り様だが、とはいえ思考を停止するのも納得がいかぬ。

「いいえ?確かに造りは似てますけど……」

 そんな具合で顔を顰めるが、足を止めた名前はのんびりと首を傾げた。迷った……という顔ではない。それに足取りにも躊躇いはなかったから、恐らく彼女の中では正しく見分けがついているのだろう。
 その証拠に。

「でもほら、あちらに朱塗りの逆さ屋根が御座いますでしょう?たぶん一郎さまの仰る路では遮蔽物がありましたから見えなかったと思いますけど」

「逆さ屋根……?……あぁ、あれか」

「ええ、あちらが目印のひとつに御座います」

 彼女は少し考える仕草をして、“さっき”などという曖昧な位置を割り出そうとした。一郎の不安を察し、それを解すためにと殊更柔らかな声音で言葉を紡いだ。
 そんな彼女の指差す先。吹き抜けの廻廊。その欄干を越えたところにある壁は、西洋の意匠が施されていた。
 しかし異様なるはその形。逆さの屋根……と表するのも変な話だが、逆三角形に仕上げられた部屋はそうとしか言いようがない。それ故に目印としては格好の的であったのだろう。

「……そういやぁそうだった、かも」

 証拠を突きつけられれば勘違いと認めざるを得ない。迷ったのでは、などというのは彼女に対しても無礼なことだ。
 と、決まり悪げに頭を掻く一郎に対し、けれど名前が浮かべたのは困り顔。

「そんな、悪いのはこのお屋敷の方ですから」

 下がる眉尻。慌てて両手をばたばたとさせるのはまるで子供のよう。だが気遣いはそのお仕着せに恥じぬものであった。

「習うより慣れろと思ったのですが、しかしやはり不安でしたでしょう?ご免なさい、次は地図、ご用意致しますね」

「悪い、……けど助かる。ありがとな、名前」

「いえいえ!先程も申しました通り、私は一郎さまのお手伝い!何でもお申し付けください」

 名を呼んで、礼を言う。ただそれだけのこと。それだけのことであるのに、名前はいたく感激したという風に目を輝かす。
 勅命を受けたと言っても過言ではない様子。大仰に過ぎる、がその真っ直ぐな気性は気持ちがいい。
 人波に揉まれていると忘れてしまう、人として当たり前の感情。純粋さだとか汚れなさだとか、そうしたものは一郎に家族を思い起こさせた。大切な弟たち。彼らの笑顔と名前のそれが重なった。

「ええっと、一郎さま……、この手はなんでしょう?」

「ん?……あぁ、悪い」

 気づけば一郎の手は名前の頭の上にあった。……だけでなく、その輪郭を弟たちにする手つきで撫でていた。
 訝しむ声。窺う目に、「さすがに無遠慮だったか」と手を離す。
 確かに名前は無邪気だ。だがその背格好は十代後半の少女……に近しい。恐らく一郎とさして年齢は変わらぬだろう。だから一郎も手を引いたのだ。

「いえいえ!悪くはありませんよ!むしろ夢心地、桃源郷もかくやといった感覚でした!!」

「お、おう、サンキュ……?」

「はい!こちらこそ有り難う存じます!!」

 だというのに、目の前に広がるは喜色満面の笑み。一郎には喜びに跳ねる尻尾すら幻視できた。その様はさながら子犬、といったところか。
 ともかく気を悪くしたのでないならいい。
 一郎はそう考え、足取り軽く先導する少女の後を追った。その歩みには最早曇りひとつない。追う一郎の顔もまた、すっかり晴れやかなものとなっていた。