微睡みの書架
一郎が最初に連れてこられたのは屋敷の書庫、そして出会したのは無尽蔵とも思えるほどの書籍の山であった。
「こいつはまた……遣り甲斐がありそうだ」
書庫……といっても個人宅にあるようなそれではない。小さな図書館、と言った方が正しかろう。
お屋敷がお屋敷ならその書庫もまた常識外れ。利便性なんてのは端から無視され、天井まである書棚のお陰で全貌がまるでわからない。一体どれほどの広さなのか。どれほどの本があるのか。
乱雑に捨て置かれたままの本を見下ろし、一郎は顔を引き攣らせた。
「正直に仰っていただいて良いのですよ?“なんでここまで放っておいたんだ!”って」
「いやそこまでは……、悪い、確かにそう思った」
「ですよねぇ……」
そしてその傍ら、はたきやら塵取りやらをいそいそと用意する名前。雇い主を前に下手なことは言うまいと口を濁したのを察し、彼女は自ら率先して呆れるやら嘲るやらといった類いの笑みを滲ませる。
というのも致し方のないこと。書籍の量が膨大なのは置いておくとしても、その管理がまるでなっていない。これでは本の墓場。どころか野晒しの刑にでも処されているようだ。そのくらい本はあるべき場所から離れ、床やら机やら果ては階段の途中やらに積まれているのだった。
しかし仕事は仕事、やらねば終わらぬのが道理。家で待つ可愛い弟たちのためにも、と腕を捲る一郎。そんな彼と手分けをすることになった名前はといえば、のんびりとした口調に反し、非常に手際が良かった。こうしたことには慣れきっているのだろう。
彼女がどれだけ長くこの屋敷に勤めているのか。住み込み、というのは道中伺ったが、はて親や兄弟は?……そこまで問うのは余りに無遠慮。気にならないと言えば嘘になるが、一郎はそれをちらりとも見せずに呑み込んだ。
そしてそんなことと知らぬ名前は変わらず言葉を続ける。無論、その両の手を忙しなく動かしながら。
「まぁでも言い訳させてもらいますと、私共とてただ手をこまねいていたわけではないのです。ですがどうにもその……数が多くて」
室内を満たす古びた紙とインクの匂い。 それから、書架の谷間を吹き抜ける清らかな声。
背の高い書棚は室内を圧迫するだけでなく、そこここに深い影を落とす。おまけに照明の類いは揃いも揃って仄かな色しか宿さず、余計に影を深めていた。
しかし傍らにあるのはそればかりではない。件の少女の声と、それから温もりを感じさせる衣擦れの音。生きた人の気配に、作業する横で静かに耳だけを傾ける。
「増えもせず減りもせずならば良いのですけど。本といえば元来出入りの激しいもの。足が生えたようにあちこち出回るものですから……このような有り様に」
「ええっとつまり……ただの書庫ってわけじゃないんだな?」
もしかするとそれは独り言であったのかもしれない。
そう思うほどに少女の言い回しは独特である。迂遠なーー有り体に言ってしまえばわかりにくいーー話。それを頭の中で整理してから、一郎はそうっと訊ねた。
まったくの見当違いか。彼女の言いたかったことの半分も理解できていないのではないか。
そう危惧しながらの問いであったが、名前が示したのは頷きーー肯定である。
「ええ。ある時は貸本屋、またある時は古本屋……といった具合で、手をつけたそばから数が変わっていくものですから」
要するに。個人的な書庫という体裁でありながら、図書館のように貸し出しも行うし、ただで譲る時もあれば、逆に譲り受ける時もある、と。彼女はそう言いたいのだと理解し、一郎は「なるほど、だからか」と得心がいく。
名前とは出会って間もない。が、彼女が職務に忠実なのだということは伝わってくる。そして彼女がそうであるなら、他の者も同じようなものだろう。
だというのに書庫は手が行き届いているとは言い難い。惨状。言い表すならその一語で事足りる様相。そこに疑問を抱いたのだけれど、今この時氷解した。
それほどに幾つもの顔を持っていては管理の目も同じだけ筆ようになる。だがしかし、この屋敷にはそう多くの人はいないようだ。書庫まで案内される道すがら、名前と同じお仕着せの人影を見るには見たが、それも数えるほどである。
「……もう少し人手がいるんじゃないか?」
書棚を一瞥したところ、種別、五十音順に並んでいるようだ。
「一覧はこちらです」その思考を見透かしたかの如く。声と手が差し出すは一枚の古ぼけた紙切れ。年月で黄ばんだ用紙には薄らと地図……のようなものが描かれている。
随分昔に書かれたらしい見取り図。書庫だけのものらしいが、それでもないのとでは全く違う。どのような分類がなされているのか。それを頭に叩き込み、一郎はたった今汚れを落とした本の山を仕分けていく。
見れば名前も同じ手順で仕事を進めていた。何も相談はしていない。今になって「そういえば先に段取り決めなきゃ不味かったよな」と思い出した。何時もならば有り得ないことだ。何時もの一郎ならばーーもっと効率的に動いているはずだった。
しかし幸運なことにーー或いはそれすらも互いに見越していたのかーー何も言わずとも、二人には成すべきことがわかっていた。どう進めていくべきなのかを言葉なしに理解していた。
「私もそう思うんですけど。……何分ここはそのう……人慣れしてないもので、あんまり大勢は呼べないのです」
書棚の間に放置された運搬用のカート。そこに整えたばかりの本を積んでいると、座り込んだまま作業する名前が話を引き戻す。先程、一郎が溜め息混じりに溢した提案に。困り顔で引き戻し、肩を竦めてみせた。
人慣れしてない。名前はまた遠回しにーー今度は意図的にだがーー言葉を紡ぐ。それはきっと一郎を気にしてのことだろう。
だが当の本人は数秒の暇を置いただけで、「あぁ、」と諒解してしまった。人慣れしてない。つまりーーここの住人は余所者嫌いなのだろう。
通りで挨拶にも応じないわけだ。依頼から今日まで、一郎はたったの一度も依頼主の顔を見ていない。恐らくは名前の言う“旦那様”がそうなのだろうが……人見知りというのにも限度がある。
だがこの名前の言葉。単に余所者嫌いというのなら、これまでの態度も屋敷の人手が足りないのにも納得がいく。
ということは彼女の社交性の高さはこの屋敷にあって異常なのかもしれない。まぁ一郎にとっては幸いであったが。
「じゃあ他に手の空いてるヤツは?」
ともかく、と気を取り直し。それならば全員総出で取り組めばどうにか改善されるのでは、と目を向ける。
と、名前が浮かべたのは遠い眼差し。
「……他も他で手一杯なのです。日がな一日、ずぅっとお掃除しても終わらない。それがこのお屋敷の日常でして」
そして口を開けば出てくるのは、気の遠くなる話だった。
「それはなんていうか……頑張ろうな」
「お気遣い、痛み入ります……」
一郎も釣られ、目を馳せ。それから名前の頭を労いの意図を籠めて撫でた。
もう他人事ではない。雇われた時点で一郎も彼女の仲間、一蓮托生なのだ。なんとしてもこの屋敷を綺麗にしてみせる。
一度引き受けたこと、乗り掛かった舟だ。途方もない話であろうと叶えなくてはならない。それが一郎の矜持であった。例えこの屋敷がどれほど常識外れなものであったとしても。