微睡みの書架�U
書庫には明かり取りの窓ひとつなく、お陰か時間というものが酷く緩やかに流れていた。一郎としてはもう十分に働いたと思っても、手元の時計はといえば思ったよりも進んでいない。そんなことを繰り返し、「では時計の方が狂っているのでは?」と一考するが、しかしそれもまた見当違い。名前の懐から取り出された銀製の懐中時計も一郎のと同じ時間を刻んでいた。
ーーまるで狐にでも化かされたみたいだ。
しかしこの段になっても一郎の中に不信感は芽生えなかった。それこそが可笑しな話なのだが……ともかく内心では首を捻りつつも、彼は目の前の仕事に没頭していった。
とはいえ単調な作業。中身を改め、種類ごとに分類していく。そればかりを繰り返している内に機能するのは目と手だけとなり、意識は茫洋とした思考の海を漂うようになった。
まずは、そう。この膨大な書籍を買い集めた“旦那さま”とやらは随分な読書好きなのだなとぼんやり思う傍ら、浮かんだのは書淫の二文字であったり。そうなると今度はそんな名前の今ではプレミア価格となったゲームがあったなとか。同じく中古価格が高騰している他のゲームを頭の中で並べ、そういえば某電波ゲーにも図書室が舞台のルートがあったなと思い出したり……脇道に逸れ、思考に溺れる内。それはやがて感覚までもを侵していった。
「……ん?」
始まりは影だった。
書棚と書棚の間。幾重にも重なる影の向こうに、動くものを見た……ような気がした。
「どうかなさいました?」
「あ、あぁ……、いや、悪い、なんでもなかった。誰か居たような気がしたんだが、」
瞬きをして、目を擦り。そうしてじぃっと見詰めてみても、沈黙を守り続ける影。そこには息遣いや気配といったものは欠片もない。とくれば、先程のは錯覚であったのだろう。
そう、頭ではわかっているのだけれど。
「怖いこと仰らないでくださいよぅ。此処には他に誰もいないはずなんですから……」
思わせ振りな語調。無論、無意識ではあるのだが、それは名前にいらぬ心配を与えてしまったらしい。彼女は大袈裟なくらいに肩を震わしてその身を抱く仕草をする。
その所作のいたいけなこと。幼げな様子は微笑ましく、一郎に家族のことを思い出させた。弟たちの幼い頃のことを。
故に彼の口許に浮かぶのは微笑。先刻の強張りも解け、緩む眼差しに宿るのは慈愛の色である。
「いや、マジに悪かった。影かなんかを見間違えたんだろ、きっと」
「それならば良いのですが……」
たぶん、恐らく、きっとそう。納得しかねる部分もあったが、自分でも計れないほど疲労が溜まっていたのだろう。ならばこの談笑こそ休息に相応しい。
そう、一郎は名前の頭を撫でたのだが、その下にあるのは言葉とは裏腹の顔。不安げに寄せられた眉。下がる目尻。うろうろと惑う視線は、書棚の陰だとか隙間だとかをいやに気にしている風だった。
「うう……なんだか私まで何かがいるような気がしてきたのですけど」
「……そりゃあれだ、虫だろ。虫がいるんだ、蜘蛛とかな」
「それはそれで嫌ですよ!」
本当はもうひとつの可能性ーー殆どの人が忌み嫌う虫の方も思い浮かんだのだけれど、さすがにそれは冗談にしても憚られた。
断っておくが、別に一郎がそれを恐れているのではない。名前が怯えるのを厭っただけだ。蜘蛛ひとつで悲鳴を上げる素振り。ならばあの虫が天敵であろうことは想像に難くない。
「あの、一郎さま、……私の肩とか背中とか、大丈夫でしょうか?なんにもついてませんか?」
「大丈夫だって。もし出てもそん時は俺が捕まえるから安心しな」
恐る恐る。気になる、けれど視界に入れるのもまた怖い。そういった具合にびくびくと視線を走らせる名前。すっかりその手は止まっていて、けれど一郎にはそれを指摘する気は全くなかった。
代わりに彼がしたのは、名前の肩に手をかけること。それから力強く笑ってみせることだった。
ーー小さな肩だ。弟たちのよりもさらに、ずっと小さな体。柔く、脆い。日頃から鍛えている一郎にしてみれば恐ろしいほどに頼りない。
しかしそこには確かに温もりがあった。人らしい温かさがあって、その下に通った血の脈動すら感じ取れそうなほどであった。
だからーー一郎もほっとした。人知れず、意識の外で。彼女の体がどこぞのゲームのように千々に裂かれることもなければ、実はホルマリン漬けの体だったなんてこともない。一郎と同じ、生きた人の感触。だから彼は安堵したのだった。
そして、名前も。
「……、」
驚いたように目を丸くし。それからどこか遠くに目を馳せ、ぽつりと呟く。
「あぁ……、そう、そうなんですよね。私、今はひとりじゃありませんものね」
言って、言いながら、名前は目を潤ます。ーーあぁ、よかった。本当に、「うれしい」と。感極まったような声の上擦り。噛み締める唇は、溢れ出る喜びを取り零さぬようにとせんばかり。そして何かを見詰めていた彼女の淡い色の瞳が一郎を映し出す。
ーー何時もの色合いを取り戻して。
「一郎さまには何度お礼を申し上げても足りませんね。どうしましょう?これでは私、何かして差し上げなくては気が済みません」
「それなら……そうだな、」
どうしようか、と。思考を遮ったのは他ならぬ一郎であった。正確には、その腹の虫が。ーー心地のいい静寂の中、盛大に鳴り響いたのだった。
「……まずはお食事ですね。ご安心ください、すぐにご用意致します!」
「……悪ぃ」
「いいえ!元気なのは何よりです!!私も腕によりをかけてお作り致しますね!!」
ーー格好がつかない。
決まりの悪さから声を落とす一郎に反し、名前はなんだかとても嬉しそうににこにこと笑う。それは取り繕うものではなく、本心からのもの。一郎のために何かができる。それを心底から喜んでいるのだ、彼女は。
そうして名前は一郎に好き嫌いを一通り訊ねてから、目にも止まらぬほどの素早さで書庫を飛び出していった。
「元気だな」
見送り、取り残されるのは静寂ばかり。辺りを囲む影も一層闇を深めたように思える。
けれどもう一郎の目が影を追うことはなかった。掌には未だ温もりの残滓が宿っているのだから。