想起すること


 夢の島、カプリ島。観光地として名高いこの島の中でも、最大の見所といえばやはりグロッタ・アッズッラーー青の洞窟であろう。幻想的な紺碧の世界。その美が遺憾なく発揮されるのは、光の関係上午前中になるらしく、最も混雑するのもまたその時間であると聞く。
 だが、お昼も過ぎたというのにマリーナ・グランデ港は観光客で溢れ返っていた。ここからは青の洞窟に向かう船も出ているし、島を巡るバスの出発点にもなっている。だからこれは仕方のないことなのだーー。頭ではそう理解していても、逸る気持ちは抑えられない。

「ミスタは、ジョルノはどこに向かったのかしら」

 言いながら、名前は辺りに視線を走らす。港前の広場。行き交う人々、待ち人を探す人々。その中を、見知った影を求め走る。
 そして彼らはそれを見つけた。

「おい、様子がおかしいぞ」

 ブチャラティが目をつけたのはボート監視小屋。その小さな建物の前には確かに人だかりができている。
 とはいっても有名人が来たとかそういった風ではない。皆関心はあるが、腰は引けている。それにどこからか警察、という言葉も聞こえてきた。

「すまない、ちょっと通してもらえないか」

 人垣を割るブチャラティに続いて監視小屋に入った名前は、その中に赤黒いシミが点々と続いているのを確認した。そして、壁に残った弾痕もーー

「よぉ……遅かったじゃねぇか」

 腹から血を流したミスタが座り込んでいるのも。

「ミスタ!」

 その隣に見知らぬ男が倒れ込んでいる。けれどそんなのはどうだっていい。今の名前にとって一番大事なのは、仲間の無事を知ることだった。
 名前は膝をついた。そして何の躊躇いもなくその傷口に手をやった。白い指先が鮮やかな赤に染まるのを厭うことなく。名前は傷ついた肌に触れ、そして能力を発動させた。

「治りそうか?」

 ブチャラティが気にするのは、ミスタの隣。気絶したままの男のことだった。
 面識のない男だ。だからこそ彼がズッケェロの仲間であろうことは二人とも察しがついていた。彼がまだ生きていることもわかっていて、だからこそブチャラティは名前に訊ねた。負傷の“原因”は生きているが、それでも名前の能力が効くのかどうかを。
 そしてそれは名前自身使ってみなければわからぬことだった。何せ基準は“原因”の消滅ーーつまりは犯人の死か、殺意が打ち砕かれたかどうかなのだから。
 故に名前は祈るような気持ちで力を使った。どうかどうか、もう喪うことなどないようにーーと。

「……ええ、大丈夫みたい」

「そうか、よかった。なら俺は外にいるやつらにこれからのことを伝えてくる」

 だからミスタの腹に空いた穴が塞がっていくのを見たときには思わず力が抜けてしまった。良かったと、心から思った。ミスタはまだ軽口を叩けるほどの余裕があるようだったけれど、それでも。
 それでも腹部への傷というのは名前にとって鬼門であったからーー本当にほっとしてしまったのだ。

「ははっ……なんだよ名前、そんな顔して……。大丈夫だって言ったろ?」

「別にそんなこと心配してないわ。私が言いたいのは……」

 弱い名前を励ますように。ミスタはいつもみたいな冗談を言って、名前の頬に触れた。そうするとミスタの朱色が落ち葉を散らしたみたいに肌に走る。
 鼻につく鉄錆。しかしそれはその強さの証明であり、戦いの終結を表していた。
 だから名前は言葉を探し、心の内から取り出す。今、一番に伝えたいこと。ーーそんなの、決まってる。

「ありがとうミスタ、……お疲れさま」

 普段ならこんなことはしない。けれど、こういう時くらいは許してほしい。湿っぽいと言われようが、それでも名前は生きている証を感じたかった。

「お、おい」

 抱き締められ、ミスタはらしくもなく声をさ迷わす。惑う指先。名前の背、その少し上で行き場を失った掌は、その体に触れるべきか否かで迷っていた。
 けれど結局。思い切るように小さく顎を引き、それからミスタは名前の背に手を回した。

「まさかお前がそんなにオレのこと好きだとは思わなかったぜ」

「あら、そうなの。案外鈍感なのね、あなた」

 その温もりをしっかりと感じられたから、名前も軽口に応じることができた。くすくすと笑いながら、身を寄せ合って。
 それは仲睦まじい恋人同士のようで。

「……ッ」

「オイオイオイ離れろよミスタ!そーいうのセクハラって言うんだぞ!」

 とはいえ辺りには鮮血の香りが漂っているし、傍らには重傷の男も倒れている。だというのに、ボート小屋にやって来たばかりよナランチャは、そんなもの目に入らぬといった様子で叫ぶのだった。
 その音量。治ったはずの傷すら痛む気がすると、ミスタは顔を顰める。「なんてこった」と両手を挙げて。

「もォー子守りの時間かよ」

「なんなら認知する?」

「悪いがこんな煩いガキはごめんだな」

 そんな下らないやり取りにすら沸点の低いナランチャは激昂する。煌めく白銀。懐からナイフが取り出されるのを見て、名前はそっとミスタから離れた。

「こんなとこでダメよ、ナランチャ。人がいっぱいいるんだから」

 辺りに視線を走らせる。ブチャラティやアバッキオが野次馬を追い払ってはいるが、遠巻きに見る人たちがゼロになったわけではない。彼らは善良なる人々だ。名前たちとは違う。こんなことに巻き込んではいけない。
 それは多くを語らずともナランチャに伝わった。

「……名前がそう言うんなら」

 彼は渋々といった風ではあったけれど、行き場を失ったナイフを収めたのだった。

「それで?これからどうするかブチャラティは言ってたか?」

「あぁ、ブチャラティはケーブルカーに乗らないと、って言ってた。でもその前にジョルノと合流しないと」

「ジョルノか……」

 ナランチャの答えに、ミスタは首を捻る。「アイツどこ行ったんだろうな」彼と行動を共にしていたはずなのに、ミスタにすら見当がつかないらしい。どうもボート小屋で二手に別れてそれっきりなのだとか。

「もう、先輩なんだからしっかり面倒見てあげないと」

「あのな、名前。だからシッターはゴメンだっての」

「いいじゃん、シッター。意外と向いてるかも……」

「って笑ってんじゃねぇかッ!おいナランチャ!」

 意趣返しとばかりに揶揄うナランチャ。笑いながら駆けていく彼を追いかけて、ミスタも外へと飛び出して行く。怪我は治したばかりだというのに……まったく無茶をする。

「さ、私たちも行きましょうか」

 そんな二人を見送り、名前はそれまで沈黙を保っていた少年へと声をかけた。フーゴ、と。名前を呼んで。
 彼は部屋の影に立っていた。なんだか微妙な顔をして。それは違和感を抱いた時のような不可思議な表情だった。

「どうしたの、フーゴ?何か気になることでも?」

「いえ、そういうわけでは……」

 そうは言うものの、眉間の皺は相も変わらず。深い谷を作っているし、顔も難しいままだ。
 けれど彼自身にも表現しようがないらしい。珍しく歯切れの悪い返事。瞳の奥には戸惑いが見え隠れしている。
 ーーこれは、追及すべきだろうか。
 名前は暫し考えあぐね、結局は首を振った。自分でもわからぬこと、今深追いされても困るだけだろう。
 そう思ったから名前は訊ねるのを止め、代わりに彼の手を取った。

「それなら急ぎましょ、置いてかれちゃうわ」

「……っ、ちょっと、名前、」

「ほら早く早く」

 最初、彼の足は縺れるようだった。躊躇いの抜けきらぬ様子。しかし名前が手を引くのを止めないとわかると、諦めたらしくその身を委ねてきた。

「……わかりましたよ、わかりましたから」

 そんなに慌てるな。そう注意する様はどこぞの先生のよう。けれどその顔に浮かぶのは渋面ではない。仕方がない。そう言いたげなものではあったがーーその口元が微かに緩んでいるのを名前は見逃さなかった。