春の憧れX


 時計を気にしつつ、足早に自宅を目指す。独歩にとってはまだ宵の口の時刻。とはいえ年頃の娘が一人出歩くには不適切な時間帯だ。
 だから独歩は急ぎ足で向かう。
 彼女はまだ家にいるだろうかーー?
 そう、逸る心を抑えて。

「あ、おかえりなさい、観音坂さん」

 帰った独歩を迎えたのは温かな光。外では木々が葉を落とし、侘しいばかりの景色が広がっているのが嘘のように。彼女がいる、それだけで、見慣れた部屋が鮮やかに色づく。

「今日もお邪魔してます」

「あ、あぁ……、た、ただいま……」

 もう長いことこんな言葉は交わしていないような気がする。一二三とは生活スタイルが異なるし、こんな風に改まって言うことなどなかった。
 ……から、ついつい言葉を詰まらせてしまう。カッコ悪い、大人の余裕を見せたい。そう思うのに……情けない。
 そう自己嫌悪に陥る独歩のことなどいざ知らず。名前は席を立ち、甲斐甲斐しく独歩の世話を焼こうとする。独歩から上着を、それからスーツのジャケットも脱がせ、丁寧に皺を伸ばしてハンガーに吊るす。
 そうしてから名前は独歩の背を押した。

「さ、まずは手洗いうがいをしましょ。疲れているだろうけど、一息つくのはそれからよ」

「わ、わかった……」

 自分よりもずっと年下だというのに。名前はてきぱきと事を進めていく。
 独歩を洗面所まで半ば無理矢理連行し、今度は「他に洗濯物はあります?」と聞いてくる。のを、ぼんやりと咀嚼して、独歩は記憶を辿る。

「あー……ハンカチがどっかに」

「どっかに?」

「たぶん鞄の……、どこだったかな……」

 今朝のことなど遥か彼方。一二三が洗ってくれたのを鞄に入れた覚えはあるが、その後のことといったらとんと記憶がない。
 考えるのも面倒くさくなって、独歩は「後で探すよ」と言った。言っておきながら、それもすぐに忘れてしまうのだろうなとも思っていた。
 そんな思考を見透かしたのか。

「もう。そんなこと言うんなら勝手に鞄開けちゃいますからね」

「ん……いいよ」

「……それは信用されてるってことなのかしら」

 名前は一瞬唖然としたといった風に沈黙した。その後で溢れるのは溜め息。信用されているのか、それとも単に面倒くさがっただけなのか。判断つきかねると複雑に眉根を寄せた。
 食卓には温かな湯気が立ち上っていた。

「今夜は鍋か」

「そう、今日は冷えたから」

 名前は温め直した鍋から移したものを独歩の前に置く。肉団子のカレー鍋。キャベツの緑とミニトマトの赤が目にも鮮やかだ。
 食欲をそそる香りにぐうと腹が鳴く。が、名前には届かなかったらしい。彼女は少し気恥ずかしそうに目を伏せ、口早に続ける。

「ごめんなさい、伊弉冉さんほど手の込んだものじゃなくて」

「いや、そんなことは……」

 ただ彼女が作ってくれた、それだけで嬉しいというのに。けれど真実を紡ぐには独歩の唇は臆病で、そんな簡単なことにも怯んでしまう。代わりに呟いたのは「旨そうだ」というつまらない台詞。気の利かないことだ。
 だが名前はほっと表情を緩める。安心したといわんばかりに。わかりやすく胸を撫で下ろし、「沢山食べてね」と微笑む。
 名前は独歩の帰宅を待ってくれていたらしい。彼女も取り皿を出し、二人食事を進める。
 どちらも言葉の多い方ではない。だから会話も途切れ途切れで、端から見れば盛り上がってるとは言い難い。が、独歩にはそれが丁度よかった。同じ時間を過ごす。それがいかに尊いことか、社会人の独歩にはよくわかっていたのだ。

「そうだ、一二三といえば……」

「はい?」

「なんか変なこと言ってないか?アイツ、突拍子もないことよく言うし……」

 独歩の幼馴染み、伊弉冉一二三と名前に直接の面識はない。というのも気を遣った名前が彼を避けているからだ。よくもまぁ器用に、と驚いたものだが、名前は事も無げに「慣れていますから」と答えたものだ。
 そんな二人ではあったが些細な切っ掛けから文通を始め、今ではスマホでメッセージのやり取りにすら発展しているらしい。まぁ、電話まではできないのが一二三らしいが。
 ともかく独歩はそう訊ねたのだが、名前は「いいえ?」と小さく首を傾げる。

「伊弉冉さんは観音坂さんの神様だもの。とてもためになる話をしてくださるわ」

「神様って……、」

「神様でしょう?この世に二つとない美しきもの、」

 一二三のことは乞われ、写真だけは見せたことがある。だがそれだけだ。それでも名前は何かを感じ取ったらしい。以来、一二三のことを神様と呼ぶ。独歩の主治医、神宮寺寂雷のことも同様に。
 神様と慕う少女にそれ以上の否定は紡げず。曖昧に笑う独歩に、しかし名前は視線を落とす。「でも、」沈む声音。曇る双眸。怪しい雲行きに、独歩はたじろぐ。

「この間は酷いことをしてしまいました。伊弉冉さんがわからないと言うなら素直にお教えすればよかったのに。私がピッピの強さに憧れたこと、観音坂さんに縁ある言葉を連ねて名前を作ったこと、正直に言えばただそれだけの簡単なことだったのに」

 件の“恋文”に関することだと独歩にはすぐにわかった。わかったけれど、彼女がそうまで気落ちする理由までは見当もつかない。「酷いこと?」そう首を捻ってしまったのも致し方のないこと。
 が、名前にはそうでないらしい。「ええ、」彼女はゆっくり顎を引き、己を責めるように唇を噛んだ。

「私、優越感を覚えたんです。観音坂さんとなら説明しなくても通じ合えるってことに。だから意地悪にも伊弉冉さんには答えを与えなかった。伊弉冉さんが神様なのは仕様のないことなのに、なのに、私、」

 ーー嫉妬、したんです。
 そう呟く声は懺悔の色。告解にでも臨むような面持ちで彼女は独歩をひたと見据える。嫉妬などというどろどろした感情とは無縁そうな真っ直ぐさで。独歩には眩しすぎるほど美しい瞳をした少女は、そんな独歩を想って心を焦がしたのだと告白するのだった。

「……そう、なのか、」

 それに独歩が感じたのはーー間違いなく喜びの類いである。
 唇が緩むのを抑えられない。直向きに慕う色に。独歩からすればそれこそ彼女の方が余程神に程近いように思われるというのに。なのに名前は独歩をこそ支えだと、唯一無二なのだと、そう訴えた。

「観音坂さん?」

「いや、ええっと、なんだろう……」

 口元を覆うのは余計なことを仕出かすのを恐れて。だがわけもなく叫び出したいという本能があるのも事実。これでは正真正銘獣ではないかと呆れ返るも、それは己の内でも冷静な部分だけ。残る箇所では感情が好き勝手に暴れ回っている。
 が、黙し続けるというのも誠意に欠ける。さすがの独歩とてそれくらいはわかっていたから、なんとか居住まいを正した。

「その、名前……」

「はい」

「卒業、したら……ええっと、その、……うちに、一度来ないか。あ、……挨拶に、でも」

 名前との関係に明確な言葉はない。想いが通じ合っているのは互いに察しているが、付き合う付き合わないの話はこれまでどちらも口にしてこなかった。学生の身である彼女を思ってのことだが、ーーそれが余計に負担を増やしていたのかもしれない。
 独歩としては彼女以外考えられない。何故か、と問われると言葉に詰まるが、ともかくそうとしか思えなかった。己の半身のような、そんな感覚。
 故に、独歩の口から出たのはそんな台詞であった。それに彼女がなんと答えたかは……語る必要もないことだろう。その後の独歩が涙を流す彼女に慌てふためくこととなった、それだけで十分な答えなのだから。