俺たちに明日はない
ポルポの遺産を手にし、ブチャラティは幹部にまで出世を果たした。そして亡きポルポに代わり、彼が持っていた権利までもを受け継いだ。
そこまでは予想通り。トントン拍子に事が運んだのには拍子抜けしたが、それだけだ。喜ばしいことに変わりはない。
なのだけれど、ペリーコロの話はそこで終わらなかった。
「『ポルポ』がやり残した仕事は当然ブチャラティ……君が受け継ぐというわけだ」
そして彼は、驚くべき情報をブチャラティチームに齎した。
パッショーネのボスには“娘”がいるーー。
そんな情報は今の今まで知らされてこなかった。恐らくは噂話すら幹部たちの間でしか交わされていなかったろう。それだけに重要な話であり、同時に危険を感じさせる情報であった。
幹部のペリーコロはブチャラティに“ボス”じきじきの“命令”を下した。
ボスの娘、“トリッシュ・ウナ”を“一週間”護衛せよーー。
その指令に、チームの誰もが言葉を失った。ペリーコロが去った後も。皆何事か言いたげではあったが、口にすることは憚られた。
そんな彼らの前に、件の少女、トリッシュは現れた。初対面の時の変装を脱ぎ捨て、年頃の娘らしい格好で。化粧室から出てきた彼女は、真っ先にフーゴへと声をかけーーその上着を脱ぐよう命じた。
「ハンカチないからハンカチ買ってきてね。それとストッキングのかえとジバンシーの二番の頬紅。イタリアンヴォーグの今月号もお願い。ストッキングは……」
彼女はその後も色々な要求を矢継ぎ早に話した。話してくれたけれど、誰もそれに答えようとはしなかった。というよりできなかったのだ。彼女の行動が余りに予想外すぎてーー呆気にとられていた。
それにボスからの指令のこともあった。彼女、トリッシュを命がけで護れ。既に暗殺者は動き始めている。新しく幹部になったことで、構成員の目はブチャラティに集まるだろう。そうなったら敵もブチャラティを疑うに違いない。
他の幹部のところにいない。ならばトリッシュは新しい幹部の庇護下に置かれているのではーーと。
事は一刻を争う。だからこそ皆それぞれに思いを巡らせていたせいもあり……トリッシュに答える暇もなかった。
「ええっと、シニョリーナ……トリッシュとお呼びしても?」
そんな沈黙を、恐る恐る破ったのは名前だった。
ここは同性の私が行くしかない。一週間も行動を共にするのだ。ならば最初が肝心だろう。打ち解ける、まではいかずとも、彼女に信用されなければ護るものも護れなくなる。
そう考え、名前は口火を切った。自分よりずっと年下の少女の様子を窺いながら、おずおずと。
しかし名前の懸念を裏切り、トリッシュは「ええ、構わないわ」とあっさり頷いた。やはり同じ女性ということで多少は警戒も和らいでいるのだろう。
それに一安心しつつ、名前は話を本題へと持っていく。
「グラツィエ、それでその……ハンカチなのだけれど、言ってくれればいくらでも貸したのに」
トリッシュがフーゴに上着を脱ぐよう命じたのは、何もそんな趣味があったからではない。ただその場にハンカチがなかった。持ち合わせていなかったから、彼女は仕方なしにフーゴの上着で手を拭ったのだ。
確かに、ナランチャやミスタなんかにはハンカチの有無を訊ねるだけ無駄だろう。だが名前は違うし、きっとブチャラティやジョルノだってハンカチくらいは持っている。そう思ったから、名前はこの言葉を口にした。
けれどトリッシュの反応は芳しくない。名前の言に眉根を寄せ、
「悪いけど人の使ったハンカチなんて使えないわ、あたし」
と、潔癖さを伺わせる言葉を発した。ものだから、名前としても受け入れざるを得ない。
「あぁ、そうなの……」
人には都合というものがある。彼女のそれも、彼女にとっては重要なことで、決して曲げられぬ信条なのであろう。そのことに、出会ったばかりの名前では口出しできない。
ただ微妙な表情で頷きーーあっと声を上げた。
「だったらこれ!まだ新品のタオルがあるわ!船で濡れるかもって予備を幾つか買っておいたから……」
慌てて鞄を探る。
ラグーン号に乗る前。船着き場で買い求めた真新しいタオル。無地のそれは少女の手には味気ないが、それでも他人の上着よりはずっといいだろう。
と、名前が差し出したタオルをトリッシュは暫し見つめーー
「そう。あなた、気が利くじゃない」
「あ、ありがとう……」
その言葉に嘘がないこと。タオルが真実未使用品であるのを確認し、ようやく彼女は名前からタオルを受け取った。
つんと澄まされた顔。相変わらずのトリッシュの反応に名前は戸惑うが、すぐにそれも仕方のないことだと思い直す。
彼女はまだ十五歳の少女なのだ。見知らぬ赤の他人と四六時中顔を突き合わせる。そんなの、普通の子供には耐え難いことだろう。しかもどこの誰とも知れぬ存在に命をつけ狙われるという大きすぎるおまけつき。神経が参っても致し方ない。
というのに彼女は不平を洩らしはしなかった。思うところはあるにしろ、口に出しはしなかった。それだけで十分、彼女は歩み寄りを示してくれたのだ。
そう思い直した後、名前は内心でトリッシュを気の毒がった。
きっと彼女は他人の握ったお握りだとかが食べられないタイプなのだろう。潔癖症の気がある。日常では個性のひとつとして埋没するであろうそれだが、今回ばかりは都合が悪い。何が起こるかわからない今、身綺麗で居続けられる保証はどこにもなかった。
それでも、出来うる限りの配慮はしてあげたい。
決意を固め、次に名前はフーゴに視線をやった。トリッシュに上着を湿らされ、呆然としている彼に。
「これでもう大丈夫。さぁ、それを貸してちょうだい。すぐに乾かしてあげる」
「あ、ありがとうございます」
今のトリッシュはタオルで手を拭うことを選択した。だから時間を巻き戻せば、フーゴの上着が濡らされる未来を回避できる。
そう名前は囁き、トリッシュの目から隠れるよう気を遣いながら能力を発動させた。
ーーうん、やっぱり思った通り。
無事乾いたーーように見えるジャケットをフーゴに着せてやる。
と、彼は袖を通しながら律儀にも礼を言ってくれる。手間をかけさせた。そんな風に下げられた眉。能力を使ったのは名前の勝手なのに……彼は本当に真面目だ。
だから名前も顔を綻ばせ、緩やかに首を振る。
「いいの、あなたにはいつも助けられているから」
笑い、その肩を軽く叩く。
交わる視線。煌めく紫水晶。そこにはもう、先刻までの曇りはなかった。