運命の娘


 トリッシュの要望は聞き届けてあげなければならない。けれど周りの目を避けなければならないのも事実。
 チームで動くには目立ちすぎる。ということで、一行はカプリ島を出ると組織が用意したセーフハウスへと向かった。
 頬を撫でる柔らかな風。車が止まったのはブドウ畑に囲まれた一軒の家。長閑な景色の中、ブチャラティたちは厳しい顔つきで降り立った。

「名前、」

「……、さぁトリッシュ、私たちは二階へ上がりましょう。私が先に行くから……ね?」

「……ええ、わかったわ」

 ブチャラティからの目配せ。それを受け、名前は小さく顎を引く。
 交わされる音なき言葉。鋭い眼差し。しかしそれは一瞬のうちに空気に溶ける。次に名前がトリッシュを振り返った時にはもう残滓すらもない。景色に似つかわしい穏やかな微笑。笑みを刷いて、名前はトリッシュに左手を差し出す。
 それが取られるか取られないか。五分五分といったところだった。名前は彼女のことをまだよく知らなかったし、トリッシュにとっての名前も同じだったからーー彼女が逡巡しながらもそっと応えてくれたことに胸を撫で下ろした。
 階段を上がり、二階の突き当たり。用心深く異変がないか気を張りながら、名前はその部屋へと入った。
 ぐるりと一周。室内を見回してみるが、特に違和感はない。先にアバッキオが調べてくれたから、カメラや盗聴機の類いも見つからなかったのだろう。今のところは安心、といったところか。
 名前は入り口に控えるトリッシュへ「大丈夫、さ、入って」と笑みかけた。
 トリッシュは答えなかった。何を言うこともなかったけれど、名前の言うことに静かに従った。名前が許すまで部屋に入らず、促されてようやく足を踏み入れた。
 部屋はごく一般的な広さだった。調度品についても必要最低限のものは用意されていた。窓だって大きかったし、新しい苗木を植えたばかりのブドウ畑が春の草花に彩られているのを見ることもできた。
 けれどトリッシュがそこに入ると途端に全てが色褪せて見えた。息が詰まるような閉塞感。ここは牢獄なのだ、と彼女の目は言っていた。

「あたし、こんなところに一週間も閉じ込められるのね」

 部屋に落ちる沈んだ声。窓際のベッドに腰掛け、トリッシュは物憂げな顔で窓の向こうに目を馳せた。

「……そうかもしれないしそうじゃないかもしれないわ」

 その表情に胸が痛まないーーわけがない。どんなに落ち着いていたって、彼女はマフィアなんかじゃない。そんなものとは無縁の、どこにでもいる普通の少女。
 けれどだからといって確証のない慰めを口にすることはできなかった。

「もっと早くに裏切り者が見つかるかもしれない。その反対に、彼らに私たちのことが露見するかもしれない。どうなるか……今は誰にもわからないわ」

「……そう、」

 名前が真実を話してもトリッシュの顔に変化はない。わかりやすく落ち込んでみせる、そんなことも。なかったけれど、ふいと落とされた眼差しは灰色でーー

「でもあたしが“娘”である以上……この先も安全なんてどこにもないのよね」

 その呟きには諦めのようなものが滲んでいた。自分のことなのにどうだっていいみたいな、投げやりな調子。それは到底父との対面に期待する娘のものではなかった。
 そしてその事実は名前の胸を締めつけた。至極平凡な家庭に生まれ、両親からの愛情を当然のように受けて育った名前にとって、トリッシュの言葉はーーひどく、悲しいものだった。

「だけどあなたが“ボスの娘”だったから、私たちはあなたを見捨てなくて済む……あなたを護ることが許される。私たちは一緒にいられるの、だから、」

 そう思ったからーー気がつけば名前はトリッシュの足元に膝をついていた。膝をついて、そうして彼女の手を掬い取っていた。
 驚きか。僅かに見開かれる目。それを真っ直ぐ見つめ、名前は口を開く。

「私はこの出会いをよきものにしたい。あなたが“ボスの娘”であることを嘆かなくて済むように。それが悪いことばかりじゃないって思えるように」

 零れるのは纏まりのない台詞。要領を得ない話しぶりは彼女の困惑を加速させたろう。
 それでも飲み込みのいい少女には、ほんの僅かな暇さえあれば良かった。暫し言葉を咀嚼した、それだけで。

「……おかしな人」

 名前の言いたいこと、すべてを諒解したーーという風に、トリッシュは吐息を洩らす。その声にはほんの少しの呆れとーーけれどそれだけではない何かがあった……ように、名前には思われた。勿論、名前にとって都合のいい妄想であったかもしれないが。
 ともかく名前はほっと胸を撫で下ろした。たぶんきっと、大丈夫。彼女とは上手くやっていける、そんな予感がした。