聖なるかな


 和やかな空気を打ち破ったのは扉を叩く音だった。それは性急なものではなかったのだけれど、それだけでトリッシュの肩はびくりと震えた。

「はい?」

「すみません、名前。……ブチャラティから話があるようです」

 ほんの少し。半身ぶんだけ開くと、扉の先にはジョルノが立っていた。
 トリッシュの見張りーーというと聞こえが悪いがーーを彼と代わり、名前は入れ違いにブチャラティの元へ向かう。
 彼は廊下の突き当たり、大きな窓枠の側で待っていた。遠くの景色を、あるいは今後に目を馳せて、それから彼は名前を見た。

「彼女の様子はどうだ?」

 静かな目だーー夜の湖、月だけを浮かべた水面のよう。黒々とした静寂はともすると冷たげにも映る。
 けれど名前は知っていた。彼がとても優しい人なのだと。この質問も、大変なことに巻き込まれた少女の身を案じるものだというのを。

「落ち着いているわ、気を張ってるとも言うけど」

 知っていたから、名前はありのままを話した。たぶん、ブチャラティも承知のこと。彼だってトリッシュの心中くらいは察しがついているだろう。
 でもその考えに確証を持たせるためにーー少女により一層の気遣いが与えられるようにーー名前は正直に語った。そうと見えなくとも、少女の胸のうちには不安が渦巻いているだろう、と。
 名前が言うと、ブチャラティは目を伏せた。「そうか」答える声は淡々としたもの。だけれど、その眼差しは憂いを帯びていた。
 しかしそれを瞬時に振り払い、彼は名前に向き直る。

「今後のことをお前にも伝えておこうと思ってな」

「今後……あぁ、彼女に言われた、」

「そうだ、……他にも入り用になってくるだろうからな」

 大荷物になる、とブチャラティは肩を竦めてみせる。
 彼の言いたい今後のこととはつまり買い出しのことだ。これから先、この家に留まるにしろそうでないしにしろ、生きていくために必要なものは幾らでもある。が、そのうちのほとんどがこの家には用意されていなかった。缶詰などの非常食は残されていたが、それだけではこの人数、とても食べてはいけない。
 だからトリッシュの頼みがなくとも誰かが買い出しに行かなければならなかった。彼女以外の誰かひとりがーー“裏切り者”の目を潜り抜け、任務を全うしなければならないのだ。

「オレはナランチャにやらせようと思っている」

 そしてそれをナランチャに任せると、そうブチャラティは言うのだ。その眼差しは真剣で、冗談を言っている様子はない。

「ナランチャに?」

「そうだ。……不安か?」

 彼の言葉に。片眉を上げると、ブチャラティは小さく顎を引いた。そうしてから、名前を見つめ返した。
 彼は不満か、とは聞かなかった。不安かーーナランチャひとりに任せるのは、と名前に訊ねたのは、それだけ彼が名前を理解しているからだった。名前が彼を心から大切にしているのを、そして喪失を何より恐れているのを理解しているからーー彼はわざわざ訊ねてくれたのだ。
 その気遣いに、名前はそっと首を振る。いいえ、と。否定し、微笑んだ。

「そうではないの。ただほんの少し驚いたのと……後はそう、嬉しさからかしら」

 確かに喪うことを恐れている。自分を救ってくれた人。彼が傷つく姿は見たくないし、だったら自分が盾になってやりたいとすら思う。
 けれどそれでは心までは救われない。彼の意思を尊重するのならーー名前にできるのは祈ることくらいだ。彼が無事であるように。信じて、祈るだけ。
 だから今、名前にあるのは喜びだった。

「嬉しい?」

「ええ」

 訝しむブチャラティに、名前は笑みを深める。

「だってそれだけナランチャを信頼しているってことでしょう?彼の能力を評価しているって……そう、本人にも伝わったろうから」

 ーーだから、嬉しい。
 ナランチャの気持ちを思うならーーブチャラティを尊敬する彼の気持ちを思ったから、名前は喜んだ。
 ブチャラティにひとり、仕事を任された。信頼されている。頼りにされている。そう実感した時のナランチャの喜びを、我が事のように噛み締める。
 と、ブチャラティまで目元を和らげた。

「……そうか、」

 真っ直ぐな憧憬。純真な思いに、彼は少し困った風だった。そしてそこには面映ゆいといった感情も滲んでいた。

「それじゃあ私は戻るわね」

「あぁ……いや、待ってくれ」

 これで用件は終わりだろう。
 そう判断し、踵を返そうとした。ブチャラティも一度は見送りかけた。けれど、ふと表情を変える。
 その視線は名前の向こう、今はトリッシュとジョルノのいる部屋へと注がれていた。

「オレからも一度話しておきたい。……いいか?」

「彼女に?そりゃあ大丈夫でしょうけど……、いえ、わかったわ」

 たぶんブチャラティは自分の言葉でこれからのことをトリッシュに伝えるつもりなのだろう。それは知っておいた方がいいことだろうし、彼女もきっと知ることを望んでいるはずだ。
 わざわざブチャラティが?とは思いはしたが、それが彼なりの誠意なのだろう。そう思い直し、名前は頷く。
 と、ブチャラティは小さく笑んだ。

「その間は下に行っててくれ。なんだか騒がしいからな」

 彼の言うように、階下からは声が響いていた。主にフーゴとナランチャの、それから時折混じる揶揄いはミスタのだろうか。ともかく揉めてる風だったから、名前はそれも快く受け入れた。

「落ち着いたらまた彼女のところに居てやってくれ。……たぶんお前が最適だろう」

 すれ違いざま。ブチャラティは名前の肩を叩いた。軽く一度。そうして、気遣わしげな目を扉の先に向けた。
 それは彼の生来の優しさ故のもの。であったから、名前はくすりと笑った。

「本当にあなたって……優しいんだから」

「そうか?」

 本人にとっては当たり前のこと。何の気なしにみせた気遣いであろうことは彼の顔からも伝わってくる。
 しかも彼はその上で、「手間をかけさせるな」と名前にまで心を配った。名前は手間だなんて思ってないし、ちっとも気にしちゃいないのに。

「そんなことないわ。それに私、あなたのそういうところ大好きよ」

 だから名前は笑いながらこう続けた。そうすると彼も笑んで、「オレもだ」と冗談に応えてくれた。

「あら、両思いね。嬉しいわ」

「そうだな」

 物静かなようでいて、意外とノリがいい。
 そんなリーダーと笑み交わし、名前は思う。
 こんな時ではあるけれど、トリッシュにも伝わってほしい。マフィアといえど悪人ばかりではないのだーーと。
 マフィアのボスを父に持った彼女には伝えなくてはならない、と名前は思うのだった。