恋とはどんなものかしら
トリッシュの待つ部屋に戻っても、名前の気は晴れない。まんじりともせず、ただひたすらにナランチャの帰宅を待つ。ぽつりぽつりと会話を交わしていても、考えるのは彼のこと。
迷子になってなきゃいいけど……。
そんな心配ばかりしているものだから、トリッシュにまで見抜かれてしまう。
「ねぇあなた……酷い顔よ」
「そ、そうかしら」
「ええ……心配で仕方ないって顔してる」
母親でもなければ子供でもないのに、とトリッシュは呆れ顔だ。けれど彼女は知らない。ナランチャがいかに危なっかしいか、そして名前がどれだけ彼を大切に思っているかを。
「でも、ね、きっとあなたにもそのうちわかるわ。ナランチャは本当に頼りになるのだけれど……でもその、なんていうのかしら……抜けている、とも違うのだけれど……。どこかで揉め事を起こしてないかとか買うもの間違えてないかとか、もう気になって仕方なくって」
だからつい、語ってしまった。
気を紛らわすためか、一度口をついて出ると言葉は止まることをしらない。転がる石のように。流れる水のように。ーーずっと昔、少女だった時分のように。語る名前を、トリッシュは静かな目で見つめていた。
見つめ、そして。
「すきなの?彼のことが」
思いもよらぬことを口にした。
青天の霹靂。寝耳に水。ともかくあまりに想定外で、名前は目を見張った。
その問いに「友だちとして?」と聞くほど名前は子供ではない。彼女の言いたいこと、指しているものは理解している。
それでも驚いてしまったのは、そういったものと無縁の生活をしてきたからだ。
名前が彼を大切に思っていることは周知の事実。そしてその理由もーー名前が彼に拾われたのだということも、チームの皆全員が知っていた。知っていたから、そこから色恋沙汰に繋げることなどなかったし、ありもしないことを囃し立てるほど幼くはなかった。
だから驚いた。驚き、少女にとってはそれが当たり前の質問なのだと思い至りーー郷愁の念に駆られた。彼女と同じように、普通の少女だった頃を。思い出して、苦笑した。
「いいえ、違うわ。だって私には……そんな資格、ないから」
未練がましいとわかっている。重々承知。それでも想いは消えない。叶わなかったからこそ夢に見る。未だに後悔してしまう。
ーーあの時、私は。
どうするのが正しかったのか。このところは水底に沈んでいた思考が泡を立てる。何か、できることがあったんじゃないか。十年以上も昔のことを、それだけの時が経った今も。思い出し、己を苛む。
その時点で、まだ名前は変われていない。まだあの日に立ち止まったままーー誰を好きになることもできずにいる。
ーーだから、今はまだ。
「新しい恋は初恋を忘れられた時にとっておいてあるの。だから私のことはいいのよ」
「……そう」
「……それより!あなたのことを聞かせて」
名前は微笑んで、ーーそう、彼女が気に病まぬようにと殊更に声を明るくした。……のだけれど、そんなものは細やかな抵抗に過ぎない。
たぶんトリッシュは察してしまった。察したから、何事かを言いかけ、やめた。物思わしげな目。案ずる色に、名前は慌てて手を叩く。
「あたし?」
「ええ、そうよ。あなたこそ素敵な人がいるんじゃなくて?」
こういう時にはどうすべきか。
咄嗟に思いついたのは同じ質問を返すこと。つまりは恋ばなというやつだ。
しかし言ってから、本当にその通りだと名前は思った。彼女くらいの歳の時、名前の周りは甘酸っぱい話題で溢れ返っていた。あの頃の少女たちにとっての一番の関心事。世界は桃色でできていた。
けれどトリッシュは。彼女は違う。彼女はこの世界に無理矢理連れ込まれた。ありふれた日常から無理矢理引き剥がされてしまった。例え、そちら側に思い人がいたとしても。
だから名前は同時に「しまった」と思った。彼女の傷を抉ってしまったんじゃないかと。
案じたのだけれど、反対にトリッシュは落ち着いたままだった。静かに首を振り、「いないわ、そんな人」とつまらなそうに鼻を鳴らした。
「同年代なんて子供ばっかり。でも歳上趣味ってわけでもないし」
「あぁ、そうなの……」
虚勢ではなさそうだ。しかしそれにしてもなんというか……大人びている。名前が彼女くらいの時には惚れた腫れたよりも幼馴染みとバカみたいなことをするのが楽しくて仕方なかったものだが。
「ううん……これがお国柄ってやつかしら……」
「なんの話?」
「いえ、なんでもないわ」
それより、と名前はトリッシュに向き直る。
「ありがとう、お話してくれて。お陰で気も紛れたわ」
「……別に、暇だっただけよ」
言うと、トリッシュの表情はすぐに取り澄まされたものに戻ってしまう。けれどそれが恥じらいによるものだと名前にはわかってしまった。だって、彼女の目元は少女らしく赤らんでいる。ただ素直じゃないだけなのだ。こんな状況に置かれているから。
「ねぇ、トリッシュ」
「……何よ」
「この任務が終わっても……、あなたがどういう道を選ぶとしても、私たちのこと、私のこと、忘れないでね。困ったことがあったらいつでも呼んで。きっと助けに行くから」
ボスの娘として生きていくとしても、そうでないにしても。一度この世界と関わってしまった彼女にはこれから先も闇がつき纏う。いつなんどきまた事件に巻き込まれるか。なんの保証もない世界で、だからこそせめて力になりたいと思う。名前にできることなら、なんだって。
そう言うと、彼女はまた呆れたように息を吐いた。
「本当にあなたって……おかしな人なんだから」
先刻聞いたばかりの台詞。そっくりに言いながら、けれど今の彼女の顔はーーその口角は、ほんの僅かに緩んでいた。