陽のあたる場所
階下へ降り、キッチンに入る。と、そこにはジョルノとアバッキオがいた。
とはいえ仲良く語らっていた様子ではない。ジョルノは席に着いていたし、アバッキオは離れたところで壁に寄りかかって立っていた。
「何かありましたか?」
名前に気づいたのはジョルノの方だった。いや、アバッキオも気づいていたのかもしれないが、ともかく反応を示したのはジョルノだけだった。
彼はほんの少し首を傾げ、さっと席を立つ。名前を案じる目。歩み寄るジョルノに、名前は慌てて首を横に振った。
「そうではないのだけど……彼女に言われて、」
視線で指し示すは頭上。二階にいるトリッシュを暗に示して、名前は続ける。
「コーヒーでも飲んで落ち着いたら、って」
その口元に浮かぶのは苦笑に似た笑い。彼女と話していて落ち着いた……と思ったのだが、そううまくはいかないらしい。
ーーナランチャの帰りが遅い。
一度そう思ってしまえばもうダメだった。どうしたって、何をしていたって彼のことを考えてしまう。事故や事件に巻き込まれたのでは。思考は嫌な方向へと傾いていく。成す術なく、どこまでも。落ちていく気持ちを、彼女はやすやすと看破してみせたのだ。
「あぁ……」
ということは聡いジョルノにもわかるということで。
彼もまた諒解したという風に声を洩らし、名前を見つめた。
その瞳の色。凪いだ目は名前に感情を伝えない。彼が何を思っているのか。名前にどんな感情を抱いたのか。
……呆れ、られただろうか。
それも仕方のないこと。現にアバッキオはそんな一瞥をくれた。何も言うことはなかったけれど、それがすべてだった。
だから彼も、と思ったのだけれど。
「よければぼくが淹れましょうか」
インスタントですけど、と言い添えた彼は、ほんの僅かに笑んでいた。呆れとか嘲りとかではない、純粋な笑み。まるで微笑ましいとでもいうかのような、そんな顔で、ジョルノは名前を見ていた。
「それじゃあお願いしようかしら」
だから自分でも驚くくらいホッとして。名前も知らず強ばっていた体をほどいた。
……のだけれど。
「待てジョルノ。オレがやる」
束の間漂う穏やかな空気。しかしそれはアバッキオの低い声によって全く異なるものへと転じる。
目を瞬かせる名前。それを無視して、彼はジョルノの手から空のカップをもぎ取る。奪い取るといった方が正しいような勢い。ジョルノはそれをただ静観するばかり。
二人を置き去りにしたアバッキオは。彼はその表情とは裏腹な所作で言葉通りの行動をとった。つまりは丁寧な手つきで名前のためにコーヒーを淹れてくれたのだ。
そこにはなんの魂胆もなく。「熱いから気をつけろよ」なんて言う様子からは名前を子供扱いしているようにしか見えない。
百パーセントの善意。湯気の立ち上るそれを受け取り、名前は戸惑いがちに「あ、ありがとう……」と、高いところにある目を見上げた。
ーー静かな目だ。ジョルノより深く、けれど今はまだ彼より近しい色合い。
それは色濃く名前を見下ろし、そうして。
「……もう少し警戒心を持て」
それだけ言い残して、彼はキッチンを去っていく。恐らくはブチャラティのところへ向かったのだろう。歳の近い彼らは一緒にいることが多いからーー。
「ちょっと、アバッキオ……、」
だから名前の呼び掛けは宙に溶けて消えてしまう。彼の背まで追いつけず。漂い、溶けたそれは、後に気まずさだけを残していった。
名前はそろそろと目を上げた。視線はジョルノへ。名前と同じくアバッキオを見送るその顔を窺い見て、名前はそうと口を開く。
「……ごめんなさいね、でもあなたを疑ってるとか侮ってるとかじゃないのよ」
「いえ、大丈夫です。わかっていますから」
言葉を選び。頭を巡らし。そうして言い訳がましく述べる名前に、対するジョルノは冷静そのものだった。
「とても仲間思いなんですね、彼」
そしてそう呟く瞳は、ひどく優しい色をしていた。
「そう、そうなのよ」
だから名前は思わず勢い込んで頷いた。びっくりした風のジョルノに気づくこともなく。
「私が入ったばかりの時もあんな感じでね。ずうっとツンツンしてるもんだから、そりゃあ困ったものよ」
目を馳せ、記憶を遡る。
一年近く前。ナランチャに救われ、けれど他に行き場のなかった名前は組織に身を寄せることを決めた。
当然ブチャラティは反対した。“ごく普通の生活”というのを大切にする彼は、名前を街の暗部に立ち入らせようとはしなかった。
けれど名前の決意は固く。その心に動かされたナランチャの勧めで名前は組織の試験を受けることになりーーチームへの所属が認められたのだ。
そうなればブチャラティも文句は言えない。不承不承、ながらも、彼はとても親切に街のこと、組織のことを教えてくれた。
ーーだがアバッキオはそういかなかった。
名前が女だからか、それとも能力を気にしてか。行動に表すことはなかったけれど、代わりに言葉や態度で名前を牽制した。
「でも……そうなのよね、それだけ大切にされてるってことなのよね」
それも、今ではいい思い出だ。
そう思えるのは名前が彼のことを少なからず知ってしまったからだろう。彼のそれが己や仲間を危険から遠ざけるためのものであると。知ってしまったから名前は牙を向けられるのも気にならなかったし、今ではすっかり諦められてしまっている。それだけの時を共に過ごしてきた。
月日を噛み締める名前に、ジョルノは「嬉しいですか?」と目元を和らげる。
それに向き直り、名前はまた言葉を探した。今度は取り繕うのではなく、真実を伝えるために。
「ええ。認められたっていうのもそうだし、……あなたがそう言ってくれるから」
「ぼくが?」
「だってあなた、出会ったばかりでしょう?なのにもうすっかり見抜かれちゃって。彼のこと、あなたにわかってもらえて、うれしい」
向き直り、見つめ返し。名前が微笑むと、応えるようにジョルノの唇も弧を描いた。
その表情に、不思議と意識が吸い寄せられる。
「なんです?」
不思議そうな顔。瞬く間に先刻の微笑は露となり、仄かな温もりしか残っていない。それが残念だと思い、ーー覚えのある感覚に、名前は笑みを溢した。
「ううん……ただ思い出したの。あんまり笑わなくなっちゃった友達のこと」
大切な幼馴染み。ずっと一緒に生きてきた。あの途方もなく、流星のような冒険の日々すらも。共に過ごしたというのにーーいや、だからこそーー今は遠く隔たってしまったひと。
「彼のこと笑わせたくて。そのせいで私、こんなに喧しくなっちゃったのよ」
「そう、なんですか」
「ええ。だからね、似ているなって。……あなたとその人。だから私、あなたたちの前だとついついおしゃべりになっちゃうみたい」
笑う顔が好きだった。だからジョルノのこともーーほんの少し、ちらりと見せる微笑に、同じくらいの喜びを感じる。
と言うと、さしものジョルノも虚を突かれたらしい。ぱちりと瞬く目は常とは異なりその容貌を幼くする。そうすると一層昔を思い出して、名前は笑いながらカップに口をつけた。
「……っ、」
……そんなだったから、油断していた。すっかり忘れていた。淹れられたばかりのコーヒーがどれだけの熱を持っているのかを。忘れていたものだから、その熱さに肌は驚き、名前は顔を顰めた。
「……ふふっ」
「あ、もう、今のは笑うところじゃないわ」
その反応が何故だかジョルノのお気に召したとみえ。くつくつと肩を震わす彼に、名前は抗議をする。が、ジョルノには通用しない。
「それじゃあ冷ましてあげましょうか?」
「……平気よ。だって私、大人ですもの」
子供にするみたいな真似を提案され、名前は口を尖らす。だがその様はどう見たって幼子の表情だ。大人はわかりやすく拗ねたりなんかしないのだから。
ーーそう、わかっているのに。
それでもツンと取り澄ましてみせると、案の定。なおのことジョルノの笑みは濃くなり、名前は羞恥から頬を染める羽目になったのだった。