シェリーが死んだ。
そう、組織は判断した。これが真実でないことを名前は知っていたけれど、ベルモットの命により口を封じられた。
だから組織にとってシェリーは過去の人で。バーボンの案件は急を要するものではなくなって。名前が日本にいる必要性も証明できなくて。
『と、いうわけだから帰ってきなさいな』
おかげで、別の指令が与えられても名前に拒否権はなかった。
『片付いてないことがあるのに今日本を離れろっていうの』
公衆電話からの着信。その時点で嫌な予感はしていた。そしてその予感通り、電話口から聞こえる妖艶な声音。他の誰でもない、ベルモットのものだとすぐに分かるそれ。既に溜め息を吐きたくなっていたが、用件を聞くとそれどころじゃなくなった。
ベルモットは名前に本国へ帰れと言う。シェリーの生存を知っているにも関わらず。
『いいの、本当に?』
……お願い、ダメと言って。
言外に匂わせた祈り。ベルモットが答えるまでの沈黙がいやに長く感じられた。それほど、切に願ったというのに。
「……さいあく」
名前の願いは叶わなかった。
今、名前はニューヨークにいる。見慣れたはずのマンハッタンの景色を車で走らせている。騒がしいブロードウェイに高貴なるアヴェニュー。休日にはよく過ごしたワシントン公園。なのになんの感慨もわかない。そういえばこんな具合だったな。そう思うだけだ。それより早く帰りたい。しかめっ面の下で愛すべき人々を思い描いた。現実逃避だ。
「なぁに、そんなむくれちゃって」
せっかくの長所が台無しよ?なーんてベルモットはにやにや笑う。名前の心中を分かっているのに。いや、分かっているからこそ、この魔女はわらうのだ。
だから名前は余計不機嫌になる。眉間のシワが深くなる。それをまたベルモットがからかうものだからどんどんしかめっ面になっていく。
「……このままどこか突っ込んでも知らないから」
ハンドルをぐっと握りこむ。久しぶりの運転席。日本では透に車の所有権があったからこちらに来るまでずいぶん長いことご無沙汰だった。しかしこちらも景色同様特別な感情はなかった。さして車に関心がないのもそれに拍車をかける。
だから誤ってどこかに突っ込んで大破させたって透みたいに落ち込んだりしない。いっそ事故でも起こして騒ぎのどさくさに紛れて逃げ出したい。
「バーボンがどうなってもいいなら好きにすれば?」
でもベルモットには通じない。だって魔女だから。人の心を見透かす魔女。弱点を的確に言い当てられ、名前は言いなりになるしかない。最悪だ。
「……なんでわざわざ私を呼んだの」
こんな名前でも使いたいという組織。人材不足なのかしらと首を傾げたくなる。それなら名前にお声がかかるのも道理だ。
でも組織には他にもフェンリルはいる。名前でなければならない理由がない。知らぬ間に組織が崩壊していたら話は別だが。
「あなたを呼んだのは私じゃないわ」
名前の疑念にベルモットはやれやれと手をあげた。けれど彼女の目は仕草とは正反対だった。愉快だとまたたく目。唇も歪んでる。
「愛されてるわねぇ」ぐりぐり。ベルモットに頬をつねられる。地味に痛い攻撃。透と引き離された上いたぶられるなんて。名前はそれほどの罪を犯したろうか。
「なんの話?」
「さあ?」
誰の話かしらねぇ。にやにや。名前には罪を問う権限すら与えられない。笑って、はぐらかされる。これでは疑問も表情も氷解されるわけがない。
むっつりと黙りこむ名前。それを笑うベルモット。ころころと、今度は鈴を鳴らしたかのように。艶やかに笑んだかと思えば童女のようにも笑う。そんな彼女はまさしく魔女。魔女は装うものだ。
――どんな恩義があっても気を許してはいけないよ。空港で透と交わした約束。絡めた小指。温かさ。
「……あなた、変わったわね」
ベルモットは足を組み替える。……まただ。また、彼女は見透かす。じいっと、魔女の冷たい目が名前を暴く。
「なんの話?」どうしてだろう。同じ台詞なのに、背中が汗ばむのは。
名前はつとめて意識を逸らした。小指から神経を抜き取った。声から温度を切り離した。
車内に低く垂れ込める霧。止まった時間。道の先に目を向けながらも、名前の目は別のところにあった。
ベルモットの唇が動く。
「……化粧品の話よ」
……化粧品の、話。
反芻。咀嚼。よく噛み砕いて、飲み込む。化粧品の話。化粧品。そうしてようやく名前は理解した。
「そりゃあ日本にいたもの」
どっと力が抜ける。あくまで心の話ではあるから、ハンドルは強く握ったままだけど。
「あら、大丈夫だったの?」
「私はなんとも。丈夫だからかもしれないけど」
「そう」
私は合わなかったのよね、特に口紅が。ベルモットは溜め息を吐く。日本ではあまり見かけない色合いの唇。……そりゃあ合わないでしょう。名前は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「まぁそれだけじゃないけど」
ベルモットは指を立てる。「まず化粧品」また一本。「それから洋服」次は薬指。「あと髪型も凝るようになったのね」数えたら片手じゃ足りないかしら。
「それはバーボンの趣味?」
流し目。魔女はたいがい美人にできているからその仕草も様になる。どこかのフィルムみたいに。見られてることを意識した動きだった。
「趣味……なのかしら」
信号に足止めされ、ブレーキを踏む。
化粧品は日本製。洋服は日本の流行に則ったもの。ヘアアレンジも透にやってもらってる。
趣味といわれれば趣味かもしれない。自分を見下ろし思う。花柄のガウンに刺繍ブラウス、ワイドデニムパンツ。これも透に選んでもらったものだ。
今日のヘアスタイルだって発つ前に透がやってくれた。ウェーブに巻いてから右耳の下でゆるくひとつに束ねられた髪。雑然と編まれたようで計算された三つ編み。美容院で透に言われるがまま頼んだニュアンスパーマだから名前にはなんの思い入れもないはずなのに。ふわふわと視界の隅で揺れる髪が自分のものなのにどこかいとおしく思える。
「あなた、それでいいの?」
ベルモットは呆れた。「男の趣味に付き合うなんて私ならまっぴら」確かに。彼女が男にかしずいて随順するなんて想像もつかない。むしろその逆で、男が彼女に傅くのが自然だ。
でも名前は違うし透も違う。
「私は幸せだもの」
人に世話を焼かれること。それは申し訳ないのに満ち足りていて。透もそれがいいと言ってくれて。なにも不自由がないのだから、今に不満なんてあり得ない。
そう話すと、ベルモットは顔を覆った。
「私はバーボンが怖いわ」
信号が青に変わる。
ぐんぐん景色を追い越しながら、名前は「どうして?」と訊ねた。
「バーボンは優しいのに」
「……そう思うあなたも怖いわ」
どうやら、魔女にも苦手なものはあるようだ。
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お題箱より。
組織の方々〜といただいたのにベルモットしか出てきてないので続きで残りの人書きます。