あっと互いに声をあげた。……あげてしまった。
「こんにちは、"沖矢さん"」
だから、顔をひきつらせながらも名前は挨拶をした。この男相手に礼儀もなにもあったもんじゃないと思うが、しかし陰で何か言われることを思えば。そう、拳を握って耐えた。『あのアマ、俺の顔を見るなり逃げ出しやがったぜ』なんてFBIで吹聴でもされたら名前は生きていけない。海に身を投げるしかなくなる。
そう、"赤井秀一"ならどんな反応を返すか想像がついた。だが"沖矢昴"はといえば何を考えているのかまったく読めない。
名前が様子を窺うなか、沖矢昴は「おや?」と眼鏡のブリッジをあげた。
「珍しい顔ですね。えーっと、名前さん……でしたっけ」
……白々しい!
この男に名前を呼ばれただけで寒気がした。戦慄といってもいい。抑えた拳が今にも走りそうだ。代わりにぐっとデニムスカートを握り締めた。
「ええ、そうです。蘭さんにすすめられて」
安くて、でも品質もいいのよと蘭が評したスーパー。その青果コーナーで名前は男に出くわしてしまった。
そう、ここはスーパーなのだ。閑静な住宅街にある、ごく普通のスーパー。二人の周りには平凡な主婦や家族連れがいる。そんな当たり前の風景を後ろに男は立っていた。
ここが日本でなければ。いや、裏路地なら。手も足も黙らせないのに。その衝動を知ってか知らずか――いや、恐らくは知っていてなお――男は柔和に笑む。
「奇遇ですね、私も蘭さんにおしえていただいたんですよ」
ぞっとした。
あの赤井秀一が。いや今は赤井秀一ではなく沖矢昴というらしいが。しかし根本は赤井秀一で、その仮面の下には紫煙にまみれた悪人面があるはずで。女なんて『あれ』だの『アマ』だの『てめぇ』だのともののように扱う男が笑って、毛利蘭の名前を。
「そうですか、本当に奇遇ですね」
その仮面を作ったのが誰かは知らないが、感謝することだ。あの極悪な顔で蘭の名前を軽はずみに口にしたなら名前は思い切り殴り飛ばしていた。善良なる市民を汚すことは許されるはずがないのだから。
このまま話していたらいつまでもつか分からない。「では」と名前は男に別れを告げようとした。さっさと買い物をして帰りたい。そうしていつものように透の本を読みながら彼の帰りを待つのだ。
なのに沖矢昴は着いてきた。名前と同じようにじゃがいもを、玉ねぎを、にんじんをカゴに入れる。そして精肉コーナーでまで、同じものを。
「今日は何をお作りに?」
……いやな、予感がする。
「肉じゃがですけど」
「これまた奇遇だ。私もそうするつもりなんですよ」
にっこり。効果音は透と同じなのに、名前に与える効果は全然違った。背筋が凍る。表情筋が固まる。「……そうですか」答えた声は、震えていないだろうか。男に、悟られてやしないだろうか。
「でもなかなかうまくできなくて。生煮えだって怒られてしまいました」
ふぅ、と男は息をつく。「すると今度は煮込みすぎだと言われますし加減が難しいですね」どこか他人事のように男は言った。
彼の言葉通り受け取るなら、この男は生煮えの料理を誰かに食べさせたということになる。そのかわいそうな被害者は誰か。ふと浮かんだ顔は、かわいそうな逃亡者の少女。どうして真っ先に彼女を思い浮かべたのか――考え、まさかと男を見上げる。そうだ、そういえば沖矢昴は工藤家に住み着いている。そしてその隣は阿笠博士の家で。そこにはシェリー……ではなく、灰原哀という少女が暮らしていて。赤井秀一には彼女の姉を恋人にしていた時期があって。シェリー奪還の際に彼は名前たちの前に立ち塞がって。だから、つまり、まさか。
点と線がつながる。繋がった先で見えるのはいやな想像だ。でもきっとこれは単なる妄想ではない――名前は顔をひきつらせた。
「……早く、上達してあげてください」
灰原哀は姉の元恋人にストーキングされたうえ生煮えの料理を食べさせられるという拷問まで受けているのか、と。
ただでさえつらい境遇の少女になんと非道な。やはり赤井秀一に慈悲などないのだ。この男には警察の手錠がお似合いなのだと改めて思う。まぁこの国には降谷零がいるのだからそんな日が来るのはさして遠くないだろう。
その想像は、名前の溜飲を下げた。
「料理も経験です。こなせばうまくなるはずですよ」
などと助言じみたことまで口をついて出てしまった。
そう、この時名前は完全に気を抜いていた。毒気を抜かれていた。男よりも、かわいそうな少女に意識が向いていた。
なのにこの男は、赤井秀一は、わざと名前に刺激を与える。
「それはあなたのお兄さんの言葉ですか?」
「ずいぶんと仲がよろしいようで」沖矢昴の口端が上がる。見覚えのある笑い方。無意識に他人の神経を逆撫でするもの。名前も例に漏れずぴくりと青筋をたてた。
これはもう癖なのか、染み付いた習性なのか。そう、首を掴んでやりたくなる。どうしてこう人を苛立たせる物言いになるのだ、この男は。
「……ええ、そうです、わたしたち、仲がいいのです」
名前は開き直ることにした。これが赤井秀一の挑発であったとしてもなんの問題もない。だって透と名前は家族なのだから。仲がよくてなにが悪い。むしろいいだろうと胸を張った。ついでに零直伝の笑顔も添えてあげる。
「ホォー」と、沖矢昴は顎に手をやった。満足か、納得か。とりあえず語尾は下がっていたから疑念ではないだろう。
「それが、何か?」名前は腕を組み、注意深く男を見回した。相手は赤井秀一。どこから撃たれるか分かったものではない。
「何か、というわけではないのですが……そうですね、」
沖矢昴は「私には兄弟がいないので分かりかねますが」と嘘まみれの前置きをして。
「兄妹とは普通そのようなものでしょうか」
と、首をかしげた。
「それは、」
――どうだろう。
名前は言葉に詰まる。だって、名前は普通を知らない。兄妹がどういうものかも、男が何を指しているのかも。零への感情が家族のそれではないことだけしか名前は知らないでいる。
だから。
「普通かは分かりません。でも私はごく当たり前にあの人を尊いものだと思っています」
毅然と、まっすぐに。男から目を逸らさず言い切った。
男が表情を変えることはなかった。けれど驚いたようであることはつかの間の沈黙と纏う空気から察せられた。すこし、胸がすく。
しかしすぐに男は立ち直った。「それはそれは」笑いを含んだ言い方。意味深に、また眼鏡をあげる。そうされるとなぜか威圧されているような、謎の圧迫感をおぼえた。
名前はキッと男を睨みすえた。空気を切り裂くように。振り払うように。
「なにか、おかしいことでも?」
「いいえ?」
男は笑う。
「ただ、あなたの"お兄さま"がどれほどの人なのかと興味をひかれただけです」
彼を知っているのに。バーボンのことも安室透のことも降谷零のことも。すべて知っているのに、男は嘯く。「さぞやご立派な方なのでしょうね」と。
だからつい、名前は乗ってしまった。「それはもう」ふふん、と自慢げに腕を組む。実際自慢なのだからしょうがない。世間に喧伝したい。それくらい、彼は素晴らしい。そう思えば思うほど、言葉は堰をきって溢れだす。
「ご立派、などという陳腐な言葉では表せません。爽やかな目元。艶やかなお髪。すらりと伸びた鼻筋。薔薇色の唇。滑らかな輪郭。筋の通った背中。繊細な指先。細くしなやかな脚。彼のまわりには清風が流れ、佳芳が漂っております。まさに秀麗皎潔。気高く清浄でなにものよりも典雅で麗しい。これは容姿のみならず心が美しいからでしょう。彼はなにごとも不得手とはしませんが、しかしそれを鼻にかけることはもちろん得意と触れ回ることもしません。持つ者だからこそ人に与えることばかりで求めることもない。嘆かわしいことです。彼に着いていけぬ私が、嘆かわしい。私が戦線離脱した折にもそうでした。彼は糾弾もせずむしろ甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくださった。ハーブティってあるでしょう?あまり美味しい印象ではなかったのですが、彼が入れてくださったハーブティは格別でした。レモンとイチョウのハーブティだったのですが、これが結構飲みやすくて。しかもイチョウには厄除けの効果もあるんですって。イチョウには虫も雑草も寄りつかない……植物にまで造詣が深いんです。ローズガーデンに行ったときも色々な話をしてくださいました。アフロディテや蜂や……そういった話を。優しい彼は私の勉学にも助力してくださいます。どの分野にも的確な答えをくださる。一人で才子佳人を体現しているかのよう……」
そこまで言って、我に返る。沖矢昴は何も言わなかった。言わなかったけれど、目は口ほどにものをいう。面白い、と光る瞳。かぁっと名前の頬が熱を帯びる。
――やってしまった。彼のことを知っていて、なおかつ偽りなく語れる人はそういない。しかし好きなものについて語りたがらない者は少ないだろう。名前だってそうだ。端的にいえば名前は飢えていた。話し相手に飢えていたのだ。おかげでこんな醜態を晒してしまった。
「失礼します……!」
名前は逃げ出した。男の反応を見るのが怖くて、脇目もふらず駆けた。
だから取り残された男がどんな顔をしていたのか知るよしもなく。
『分からないことがあれば私も力になりますよ。勉強くらいなら教えられるでしょうから』
後日、通学路で出くわした男にそう声をかけられ、名前は悲鳴をあげることになる。
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お題箱より。
時系列としては緋色よりあとの話となります。
これまた(書くのが)楽しいお題でした。ただ好き勝手に書いてしまったので、赤井さんをぼろくそに言わせるのを忘れてしまいました。そのうちリベンジさせていただきます。