コッペリア


 空は底抜けなほどに青く澄み渡り、陽射しは柔らかな筋となってブドウ畑に降り注いでいた。
 だというのにブチャラティたちの表情は険しい。ナランチャから事の次第を聞いてしまった彼らには、早急に導き出さねばならない答えがあった。

「ブチャラティ、おれはもうこの隠れ家はやばいと思う……」

 すぐに出立すべきだと唱えたのはアバッキオだ。
 けれどブチャラティは懊悩に満ちた眼差しをさ迷わせる。ーーどうやって『移動する』のか。車は既に発見された。船も電車も飛行機も同じことだろう。裏切り者の手が回っていると考えた方が自然だ。

「『危険』は……娘を連れて移動すればするほど大きくなるんだ!」

 そう言ったブチャラティに。答えたのはアバッキオ……ではなく、フーゴだった。

「ぼくはそんな事を言ってる余裕なんぞないと思います。一刻も早く隠れ家を変えるべきだ!」

 彼は強い口調で言い切った。言い切り、そしてその視線を後方へと走らせた。名前の隣、階段に座り込み、成り行きを恐る恐るといった顔で見守るナランチャを。指差し、フーゴは言う。

「ぼくがあれだけ注意したのにこいつったら尾行されちまって……しかも道路中の車に火をつけまくったんですよ……」

 彼の言葉はまだ続く。

「目立つ目立たないのって合図の『のろし』を上げてやったってわけだ!敵は一帯をシラミつぶしに探して来ますよ……そうなった方がここを移動するのがムズかしくなると思う」

 ナランチャへの糾弾。それは彼らしい考えのもので、フーゴが間違っているとは名前も思わない。
 思わない、けれど。

「まって、そんな言い方ってないわ」

「名前……」

 それでも口を挟まずにはいられなかった。ナランチャの顔色が曇っていくのを見ていられなかった。ーーこれ以上、責めの言葉を聞かせたくなかったのだ。
 珍しく。険しい声で穿つ名前に、目を見開いたのは名を呟いたナランチャだけではない。言われたフーゴも、その隣のアバッキオも。程度に差はあれど、皆が名前に意識を向けていた。

「今は確かに治ってるからわからないでしょう。でも本当に酷い怪我だったのよ。あれが最善だった。何もかもがナランチャのミスなんかじゃないはずだわ」

 ナランチャを選んだのはブチャラティだ。そして策を与えたのはフーゴである。責任の所在。そんなものは今更突き止める必要のないものだ。少なくとも名前はそう思うし、だからこそナランチャのしたことを今ここで話題にすべきではないと思った。これから、チーム全員で危機を乗り切るためには。ーー余計な蟠りなんて生むべきじゃない。

「……あなたはいつもそうだ」

 けれど名前の発言は狙いとは反対のところへと転がっていった。
 フーゴは目を伏せて、唸るような声を絞り出した。その音は苦しげで、ーー憎しみの色にすら似ていた。
 だが名前がそれにたじろいでいる間に、彼はその影を呑み込んでしまう。跡形もなく。消し去り、再び持ち上がる眼差しには苛立ちや焦りといった当たり前のものだけが浮かんでいた。

「悪いが名前、今度の件についちゃあ、ぼくは」

「ぼくはナランチャはりっぱに敵を阻止したと思います。ナランチャは全てにおいて的確な行動をしたと思います」

 しかし、フーゴの言葉を遮ったのはジョルノだった。それまで沈黙を守っていた彼だった。
 ジョルノの唐突とも思われる台詞。ナランチャの行動を称賛するものに、言われたフーゴや名前、張本人のナランチャでさえ目を丸くした。
 そんな彼らを置き去りにし、ジョルノは続ける。今は時機を伺うべきだと。恐らくは直にボスからの指示が下るだろう、と。

「大した頭の切れだな……参謀にでもなったつもりか?」

 それはジョルノの推測に過ぎなかった。確証なんてどこにもなく、アバッキオが「すぐボスから連絡があるってなぜお前にわかるんだ?」と言うのも無理のない話だった。

「『ボス』からメッセージが入ったようだぜ……!!」

 だがその推測は現実になった。本当にボスからの指示が来たのだ。
 ボスの命令は簡潔なものだった。ーーポンペイの遺跡に向かえ。そこに隠された鍵を使えば、ボスの元まで安全に移動できるのだ、と。
 そしてそのチームに選ばれたのはアバッキオとジョルノ、それから……。

「……、」

 隠れ家を出ていくフーゴに、名前は声をかけようとした。……けれど彼はそれを避けるように足早に去っていった。なんの未練もないかのように。名前のことなんて視界にすら入れたくないみたいに。
 中途半端に宙をさ迷う、伸ばしかけた手。言葉は唇で溶け、名前は目を伏せた。
 ーー胸が、痛い。
 その様子に、アバッキオはやれやれといった風で首を振った。けれど彼はジョルノを一瞥し、それだけで自分の役目は終わったとばかりにフーゴの後を追った。
 そうして残されたジョルノは。

「……そう、気を落とさないでください。あなたの気持ちは彼もわかっているでしょう」

「……ありがとう」

 年下に気を遣われるなんて情けない。
 名前は苦笑し、それから改めてジョルノに向き直った。

「気をつけてね、ジョルノ。まぁあなたなら心配なさそうだけど」

「いえ、ありがとうございます」

 彼は微笑み、一度だけするりと名前の手を撫でていった。手の甲を、慰めるように。触れて、彼もまた車へと乗り込んだ。
 音を立てて走り去る車。ワイン畑を抜け、消えていく影を名前は見送る。ーー未練がましく。

「なぁ名前……」

「なぁに、ナランチャ」

 そんな名前に。膝を抱えていたナランチャが立ち上がる。

「さっきはありがとな。……けど、オレは名前にそんな顔してほしくない」

 ナランチャは名前の両頬を包み込んだ。痛みに戦慄く頬を。温かく包み込み、額と額を重ね合わせた。
 吐息が触れるほどの距離。それは睫毛の擦れる音さえ聞こえそうなほど。近くで、ナランチャは名前に囁く。優しく、柔らかな声音で。年上のように言い聞かせ、それからふいと朗らかに笑んだ。

「フーゴが帰ってきたらさ、仲直りしてくれよ」

「……うん、」

 彼はどちらが悪いとも言わなかった。言葉を間違えた名前のことも。その思いすら掬い取り、受け止め。その上で名前の心を解きほぐしてくれた。
 だから名前もちいさく頷いた。

「そうね、そうよね。私、言い過ぎたわ。彼の言うことは尤もなのに」

「うんうん。まァ〜、フーゴもあれっぽっちでキレんのはどうかと思うけどなァ〜〜……」

 冗談めかした言葉は、名前から笑いを誘い出す。思わず笑みを洩らすと、ナランチャもホッとしたように表情を緩めた。
 ……その後で。

「……オレも謝んなきゃな、トリッシュに」

 思い出した、と。ナランチャは溜め息を吐く。
 つい先刻の出来事。買い物に出たナランチャは、トリッシュからの頼まれものもすべて燃やしてしまったのだ。だからつまり彼女の要望を叶えられなかったということで……。

「大丈夫よ、私も一緒に謝るから」

「うん……」

 憂鬱に影を背負い込むナランチャを、今度は名前がその肩を励ますために叩いてやるのだった。