ブチャラティ√【依存end】


5部主人公が『ブチャラティルート』かつ『依存エンド』を迎えていたら。
主人公は病んでます。
原作終了後設定。




 陽射しは幾重にも連なる箭となって天から降り注いでいた。
 これが石畳の街であったなら慌てて涼を求めたところであろう。けれど今、眼前に広がるは翠の海。目にも爽やかな草原とーー翻るスカートの白だった。

「見てお兄様!馬車よ、馬車が走ってるわ!」

 初夏の鋭利な陽光などものともせず。無邪気に華やぐ少女は見る者の心をほどかせる。彼女にその気はなくとも。道行く人が振り返り、そうして微笑ましげに顔を綻ばせる。その眼差しの柔らかさ、温かさといったら。それを見守るだけのオレにも心地のいい喜びを与えてくれた。
 ともかく少女のーー名前の澄んだ面立ちは、様相は、この庭園によく映え、一枚の絵葉書のようにぴたりと嵌まっているのだった。

「おい、前を見ていないと転ぶぞ」

「平気よ平気!そうなったって私が地面と衝突する前にお兄様が抱き留めてくださるもの」

「……こら、あんまり人任せにするんじゃない」

「でもほんとうのことでしょう?」

 名前はよく喋る。かつても今も。翻弄する言葉を操り、オレから反論を奪う。
 悪戯っぽく瞬く瞳。振り返り、振り仰ぎ。上目がちに煙る藤の色。その輝きの中に憂いはない。一片も。
 そのことに安堵する一方でーーすべてを忘れてしまった彼女に悲しみもまた覚えてしまうのだった。

 ナポリ中央駅から地下鉄で約三十分。ナポリ版ヴェルサイユ宮殿と名高い地にオレは名前と共に来ていた。
 池と泉によって構成された庭園。その瑞々しい緑は人々に涼気を与えてくれる。オレもまた例に漏れず、三キロもある長い小路を穏やかな心地で歩いていた。

「ねぇあちらにあるのは何かしら」

「ん?あぁ、あれか……。あれはヴィーナスとアドニスの泉だ」

「ヴィーナスとアドニス……シェイクスピアね」

 名前が目を留めたのは天使に囲まれた一柱の女神と一人の人間の像だった。狩りに赴こうとする青年と、彼を引き留めようとする美しき女神。彼女は青年を愛していた。愛していたから危険から遠ざけようとした。
 ーーしかし神の愛すら惨い死から青年を守ることはできなかった。
 そんな悲しい物語を名前の目は思い出している。ヴィーナスと同じようにひとりの青年を深く愛しーーそして同じように喪った彼女。しかしその能力の暴走により記憶だけを“巻き戻して”しまった名前の魂は、己と近しき像にすら共鳴しなかったらしい。

「悲しい画ね……、縋るヴィーナスの必死さが私たちには伝わってくるのに、当のアドニスはちっともわかっちゃいないんだもの」

「……あぁ、そうだな」

 日傘の下、伏せられた目。影を落とす長い睫毛。だが天幕の向こうにあるのはひどく他人事。過去を忘れ、兄と偽るオレに疑いすらしない少女。その無垢な白さは尊く、美しいというのにーーオレには痛々しく映る。
 そう、彼女はすべてを忘れてしまった。何よりも愛していたナランチャのことも。彼を殺めたボスのことも。そのボスに成り代わったジョルノのことも、ーーオレのことも。
 忘れてしまった彼女は、ブローノ・ブチャラティの妹として穏やかな日々を送っている。郊外に建てた家に住み、休日にはこうして仲睦まじい兄妹として時を過ごし。充実した日々を送っているように見えるのに、時折その目に空虚が掠めるのはーーオレの気のせいだろうか。
 わからない。けれど、彼女を支えたいと思う。優しく脆い彼女のことを。大切に守りたいと、この平和が続くようにと、願わずにはいられなかった。

「どうしたの、お兄様。お疲れになった?」

 覗き込む少女の双眸。案じる瞳は偽りの兄に向けたもの。額に触れる指先に躊躇いがないのも、家族だからだ。
 「いや、」それに苦く笑い、オレは然り気無さを装って彼女の手を掴み、離す。

「お前の兄がそんなか弱いわけがないだろう?」

「でもほら、今日は暑いでしょう?あの人たちみたいに少し木陰で休んだ方がいいかも」

 するりと走る視線。その先には観光客らしき一団が日陰に涼を求め、避難を試みていた。宮殿を出た時には日もまだてっぺんにいなかったのだろう。だがこの長い距離を歩くうち、日の盛りを迎えてしまったと見える。
 対して元気なのは散歩に訪れた現地の者たち。この暑さにも慣れたという顔で歩を進めていた。
 記憶がなくとも名前は後者らしく、人の心配ばかりしている。そんな彼女に殊更柔らかい笑みを向け、オレは平気だと言葉を重ねた。

「少し考え事をしていただけだ。悪かったな」

「考え事?それは……、」

 名前は何事かを言いかけた。しかし思案し、思い直すように小さく首を振った。「名前?」訝しむ、も、彼女は微笑みでするりと躱す。

「いいえ、深くは聞かないわ。お仕事のこととか……男の人には大変なことがいっぱいあるものね」

 名前は何かしらを感じ取ったらしい。だがその言葉通り彼女が問い詰めることはついぞなかった。戦いが終わり、記憶をなくしてから一度も。綻びだらけの“設定”に違和感を覚える素振りを見せず、ただ彼女は黙って己の死を受け入れた。

「本当は……」

「え?」

「……いや、なんでもない」

 本当は、その“仕事”に君も関わっていたんだーー。
 そう言ったら、彼女はどんな顔をするのだろう。ーー記憶を、取り戻すのだろうか。それとも、
 オレにはわからない。この選択が正しかったのかどうかすら。数ヵ月が経った今も自問自答を繰り返している。現実から目を背けるべきではなかったのではないか。無理矢理にでも今を受け入れさせるべきではなかったのではないか。
 ーー真に、彼女を思うのなら。

「さぁ、あと少しだ。そうしたら昼食にでもしよう」

「ええ、そうね。今日は張り切ったのよ、お弁当」

「そうか、それは楽しみだな」

 なのにオレの口が真実を告げることはない。今日もまた、兄と嘯き、偽りを紡ぐ。浮かぶ笑顔が嘘なのかどうかすらわからないまま。ーーこれが愛なのかもわからないまま。
 オレは名前と微笑みを交わし、差し出された甘美な手に応えるのだった。