アバッキオ√
お題箱より。
時間軸は原作前。
スロットマシンの回転する音。トランプを切る音。ルーレットボールが転がる音。
俗っぽい喧騒と目には眩しすぎるほどの照明とにオレは顔を顰める。普段から仏頂面なのは自覚していたから、これではどう見たって賭博を楽しみに来た客とは思われないだろうとは理解している。しているが、だからといってバカげたギャンブラーたちに配慮するつもりもない。オレはオレの仕事をするだけだ。
なのに名前は上目がちに窺い見る。
「あの、アバッキオ……今回は私一人でも大丈夫じゃないかしらと思うのだけれど……」
そろりと訊ねてくるのはオレに気を遣ってのこと。面倒だと思うなら、と名前は提案したのだろう。だがその案に乗るわけにはいかない。
「バカ言うな、お前一人をこんなところに放り出せるかよ」
余計な気遣いだ。なおのこと顔を歪め、オレは視線を走らせる。こんなところーー無駄に飾り立てたきらびやかな人波に。
華美にはためくドレス。格式ばったスーツの黒。そんなものすら煩わしく、鬱陶しい。カジノ。こんなところに夢を見るなんぞ、オレには理解できない。ここに集う者たちにも。
オレはまた視線を落とす。名前ーー姓はない。その素性もオレは知らないし、興味もない。わかっているのは彼女がナランチャに拾われたこと、ブチャラティに受け入れられたことだけだ。
高い天井から降りしきる照明の光。それを反射する名前の髪は黄金に似た蜂蜜の色。そこに連なる輪郭もまた無垢な白さを放ち、柔らかな印象を見る者に与えていた。
ともかく、彼女はこの場所に相応しくない。富裕層向けの雑誌にでも出てきそうな造りであるのに、対照的なまでにその雰囲気は円やかで、ーーこの場所にもこの仕事にも不釣り合いな様相だった。
だからオレは一蹴した。それ以外に他意などない。別に彼女を気遣ったのでも。ただ仕事をするのにオレがいた方が都合がいいだろう。そう思っただけだ。
ーーなのに名前は。
「……ありがとう、アバッキオ」
心底嬉しい、と。感謝に目を緩め、オレを見上げていた。それはギャングらしくない真っ直ぐな眼差しで。忘れかけていた日常をオレに思い出させようとしていた。
そんなだったから、オレは名前から目を逸らした。
ーー見ていられなかったのだ。そんなことは露ほども見せやしなかったが。
「……くだらねぇこと言ってないでさっさと行くぞ」
「ええ、そうね」
オレたちがブチャラティから任じられたのは至極シンプルなもの。借金の取り立て。ポルポの縄張り下にあるカジノで、随分な額のつけをこさえた者がいるらしいと聞いた。まったく、パッショーネのシマでよくもまぁそんなことができるものだ。見逃す、なんてことありえっこないというのに。
ともかくオレたちは金さえ回収できればよかった。確かに名前の言う通り、彼女一人だって出来ないことはないだろう。それくらいに簡単な仕事だった。
だからといって油断していたわけではない。そのはずだ。なのにオレは怪我をしていた。ターゲットに近づき、要求を述べ、ーーそこまではよかった。
なのにその後、男は逃亡を図ろうとした。
バカなヤツだ。追跡に関しちゃ名前もオレもずば抜けている。逃げ切れるはずがないとオレは嗤った。
そして目論み通り男を追い詰めた。カジノは既に遠く、路地裏の暗がりにて。未だ諦め悪く後退りする男は所詮小者。スタンドを使うほどのものでもない、とオレは拳を握った。この手で締め上げる。それだけで男には十分だと見受けられた。
しかし男は抵抗を止めなかった。懐から取り出されたのは一丁の拳銃。護身用か、震える手では狙いなど定まらない。
「アバッキオ、」
「平気だ。お前は下がってろ」
不安に揺らぐ声に背を向ける。拳銃。その相手なら慣れたものだ。避けるのも無力化するのも。かつての自分が学んだことが今にも繋がっていた。……皮肉なことに。
オレは一歩、また一歩と距離を縮めた。そうしていくうちに男の目が澱んでいるのに気づいた。ーー麻薬、だろうか。正気じゃないのだけは見て取れた。そうでもなければパッショーネを相手になどできないと思えば納得はいく。
男は拳銃の引き金を引いた。一発、二発。ひとつはオレの頬を掠め、もうひとつは見当違いの方向へと舵を切った。下手くそ。オレは心の内で思い、ーー男に手を伸ばした。
「……危ないっ!」
その時、だった。声がした。切羽詰まった声。初めて聞くそれが名前のものだとオレは咄嗟には気づかなかった。
すべてを理解したのは名前がオレを引き倒した後。地面にしたたかに体を打ちつけ、何が起こったのかと倒れ込んできた彼女を引き剥がした後のことだった。
「お前……」
ぬらりとしたものが掌に滴っていた。暗がりでもわかる、赤黒い色。鉄錆のつんとした臭いは、オレを過去へと連れ戻そうとする。
「平気よ、大丈夫……それより早く追いかけなくちゃ」
名前の顔は歪んでいた。痛みに堪える顔。形のいい唇は引き攣り、なのに気丈にも笑みを刷いていた。……オレを、安心させようと。
確かに弾は避けた。オレは銃弾が壁にめり込む音も聞いたし、そこから新たに発射された様子もなかった。なのに、どうして名前が血にまみれているのか。
ーー考えるまでもない。
「スタンドか……ッ!!」
恐らくは必中の類い。思えば一発、着弾点のわからない弾があった。それはきっとなにがしかに命中するまではどこまでも追尾する能力なのだろう。だから、オレを庇った名前が怪我をした。そんなことをしても彼女にはなんの益もないというのに。
「行って、アバッキオ。私のことはいいから」
「だが、」
「大丈夫、ぎりぎり間に合ったから内臓までは届いてないわ。ちゃんとその前で止めてある」
名前が撃たれたのは背中、だがスタンド能力で深手を負う前に“巻き戻し続けている”のだと言う。痛みなんてない風に、笑って。オレのミスを責めるのでもなく、彼女はただ任務の成功だけを考えていた。
当たり前だ。組織に属するからには、自分の命など二の次。彼女には覚悟があった。だがオレはその微笑に胸が詰まった。それからどうしようもなく己を恨んだ。
それが表情に出ていたのだろう。名前は少し困ったように眉を下げ、オレの頬をそっと撫でた。
「そんな顔しないで。でも……傷が残ったら責任取ってよね」
笑う瞳に浮かぶのは悪戯な輝き。冗談なのだとさしものオレにも察しがつく。
けれどオレはそんな彼女に頷いてみせた。
「わかった。だからオレが戻るまで……持ちこたえろよ」
それからのことは語る必要もない。種がわかれば男はオレの敵ではなかったし、借金分以上の金も回収できた。任務は成功したし、名前に傷も残らなかった。
けれど何もかもがこれまで通りというわけにもいかない。
「あの、ねぇ、アバッキオ……」
「なんだ?」
「……心配してくれるのは嬉しいんだけど、あんまり気を回さなくってもいいのよ?」
いつも通り。リストランテでの仕事を終えた名前を待ち、連れ立って夜の街を歩く。帰路。名前がナランチャの待つ家に帰るまでのほんの僅かな時間。だがオレは気を緩めることをしない。
……何故かって?
「ダメだ。オレの知らないとこで怪我でもされたらたまったもんじゃないからな」
「……そう」
これがオレなりの責任の取り方だったからだ。危なっかしい彼女を護るとオレはあの夜誓った。二度と後悔しないために。彼女がオレにとって既に大切なもののひとつになっているのだと素直に認め、こうして隣を歩く。そう決めたのだ。
……とまでは口にしなかったけれど、彼女は彼女で何かを察したらしい。
「なんだか調子が狂うけど……、ありがとう」
面映ゆいと唇を蠢かせ、囁く声は近づいた春の匂い。温かで柔らかな音色は心地いいと今ではそう思える。
オレは暫し迷った末、名前の手を取った。ぼんやりと宙を掻くばかりであった手を。掴み、驚きに震えるのを包み込んだ。
「…………、」
彼女が何事か言いかける気配を視界の隅で認める。が、オレは目を落とさない。何となく、そうするのは憚られた。
名前も何も言わなかった。たぶんオレと同じように思ったのだろう。互いに沈黙を守り、決して視線を合わせず。二人して夜の向こうに意味もなく目を向けていた。
ただ彼女の指先が応えるように動いたのだけはわかった。オレにとってはそれで十分だったし、恐らくは彼女にとってもそうだったのだろう。今はお互いにそれだけがあればよかったのだ。