北北西に進路を取れ
今からおよそ千九百年前。ヴェスーヴィオ火山の噴火により滅ぼされた古代都市、ポンペイ。隠れ家から火山灰の町までは一時間足らず。けれど名前には一分一秒すら永遠に思えた。
「フーゴから『鍵』を手に入れたと連絡があった」
そう言ったのはブチャラティだった。
それ自体は喜ばしい出来事。けれど彼の顔は晴れやかとは言いがたい。故にブチャラティが何を言うよりも先に名前は察してしまった。
ポンペイに向かった仲間たちーーアバッキオとフーゴ、ジョルノの元に「裏切り者」が襲いかかったのだと。
「裏切り者」は手練れだ。あのナランチャが苦戦したのだから余程だろうと誰もが思った。
だから彼らもきっと無傷じゃ済まない。いったいどれほどの怪我を負っているのか。ーー考えれば、それだけで名前は泣きたくなった。
ーー早く、一刻も早く。彼らの痛みも取り除かなければ。
それだけを一心に思い、名前は車を飛ばした。後部座席でトリッシュが驚いた風に視線を向けているのにすら気づかず。制限速度を無視して車を走らせるのだった。
当時のままの景観が残された都市。ポンペイ遺跡の内部は地図がなければ迷うほどに広い。入り口に当たるマリーナ門を足早に潜り抜け、名前たちは北へと向かった。
北ーーカーサ・デル・ポエータ・トラジコ。猛犬に注意と書かれた悲劇詩人の家が目的地である。そこにかの有名な床モザイクの犬が鎮座しているのだ。まったく、ボスもどうしてこんな場所を選んだのか。
苛立ちすら覚えながら駆けた先。
「あぁ、ブチャラティ……速かったですね」
物陰に隠れるようにして。座り込んでいたフーゴがまず一番に気配に気づいた。他の二人、アバッキオとジョルノは返事すらない。いや、それすらする余裕がないのだろう。
けれど全員生きている。ならば名前にできることはひとつ。
「うわっ、スッゲェ血まみれじゃねぇーか!!」
「あ〜もうッ!叫ばないでくださいよミスタ!傷に響くじゃあないですか」
「なんだよフーゴは元気そーじゃん」
「元気なわけないでしょう!?ナランチャ、あなたはバカですか!?」
騒ぐ彼らにトリッシュのことは任せ、ブチャラティと名前は二人の元に膝をついた。
「おいアバッキオ、意識はあるか?」
「あぁ、問題ねぇ……。ちょいと血を流しすぎただけだ……」
「もう、こんな時くらい痩せ我慢はやめなさいな」
ブチャラティを見、アバッキオは口角すら上げてみせる。その誇り高さには敬意を抱かずにはいられないし、美しいとすら思う。
が、しかし。
血を流しすぎた。彼はそう簡単に言ってのけるが、その原因は見るも痛々しい。何せ右手首より下が綺麗に切断されているのだから。応急処置としてフーゴが止血してくれてはいるが、痛みまでは彼にだってどうしようもできない。
なのにアバッキオはまだ強がる。「うるせぇ」名前の小言をそんな具合で一蹴。しかも「オレよりジョルノを先に治せ」と意地を張る始末。まったく、気難しいったらありゃしない。
「はいはい。そういうのは元気になってから言ってちょうだいね」
とはいえ名前ももうすっかり慣れたもの。それに彼がいつもと同じ風に振る舞ってくれたから、名前は安堵から泣くことをせずに済んだのだ。
だがここで感謝を示してもアバッキオは受け入れてはくれないだろう。そうわかっていたから名前は軽く受け流し、さっさと能力を発動させる。
時間の巻き戻し。敵が亡くなったことでアバッキオの傷も存在しなかったことになる。
「まったく……相変わらず反則的なスタンドだな」
「でも代わりにこうして近づかないと発動できないから」
肩を竦め、今度はジョルノの様子を窺う。
「パープル・ヘイズの毒を浴びたんですって?」
「あぁ……船でのことといい、どうかしてるぜこいつは」
ワクチンを接種したからこのまま放っておいてもジョルノが亡くなることはない。が、随分と危険なところまで感染していたらしく、今も彼は眠ったまま。
となればやはりやることは決まっている。
「こちらも巻き戻せそうか?」
「ええ。ジョルノのだって戦いのせいだもの。敵がいない今、この結果だってなかったことにできるわ」
ブチャラティに頷き返し、名前はジョルノの体も回復させた。直に目を覚ますだろう。
……となれば、後はひとり。
「フーゴ、あなたの怪我も治させて」
名前が声をかけると、途端にぴたりと口が止まる。先程までかしましく言葉を紡いでいた唇が。お行儀よく口を噤み、そしてその目は気まずげに逸らされた。
「いえ、ぼくのは……」
平気だと彼は言う。
確かにフーゴは頭がいい。だからこうした怪我の処置だってお手のもの。既に血は止められ、名前がわざわざ手を出す必要まではないだろう。彼の言うことは尤もだ。そう、いつだって彼は正しかった。
ーーでも。
「それでもよ。……私がそうしたいの。お願いだから、許して」
「…………」
懇願する。その傷に触れることを許してほしいと。乞いながら、名前はじっとフーゴを見つめた。
彼の目線は名前よりも少し高いところにあった。聡明な瞳。それが今は灰色の思念に襲われ、戸惑いがちに揺れている。
けれど結局は観念したように息をつき、名前に向き直った。
「それじゃあ……お願いします」
「ええ」
そろりと手を伸ばす。重なる熱。瞬間、ひやりと冷たい肌が震える。けれど名前が触れても明確な拒絶はなかったから、フーゴの唇が固く引き結ばれていようとも構わなかった。触れることを許してくれた、それだけで。
「ねぇ、フーゴ」
「……なんです」
「さっきはごめんなさい。……ずっとそれが言いたくて。あなたが仲間のこと、任務のことを考えて言ってくれたのはわかってたのに、私、……酷い言い方をしたわ」
治癒を終え。車に引き返す仲間たちの後を追いながら、名前はフーゴの裾を引いた。
相変わらず強張った声。感情を圧し殺したようなーーそんな音に怯みかけ、しかし名前がフーゴの手を離すことはなかった。彼の目を見て、しっかりと言葉を紡いだ。
「別に、そんな、」
そうしていると彼が狼狽えるのも名前には伝わってくる。視線がさ迷うのも、喉が震えるのも。
「……ぼくも、感情的になりすぎました。すみません、」
息を吐き、そうしてやがて。
フーゴは眉尻を下げ、名前に向き直った。いつもと同じ高さ、いつもと同じ距離で。見下ろす眼差しに、名前は相好を崩す。
「フーゴ……!」
「うわ、ちょっ、なんなんですかあんたは!!」
「何って。仲直りのしるしよ」
もう怪我は治したからいいだろう。そう思って名前はフーゴに抱き着いたのだけれど、その手は呆気なく引き剥がされてしまう。他でもない、フーゴ自身の手により。
先程まで血の気を失い青ざめていた肌。彫刻のようだった頬が今は熱を取り戻し、仄かに赤く色づいていた。たぶん、彼は照れているのだろう。こうした触れ合いを好む質ではないから、きっと。……本気で嫌がられているわけではないはずだ。
「よかったな、名前」
「ええ、ありがとうナランチャ」
そう微笑んでいると、不意に振り返ったナランチャから優しい声をかけられる。それに答えている間にもミスタに支えられていたジョルノが目を覚ましたり、ボスからの第三の指令をブチャラティが受け取ったりしていた。
「次の目的地は駅ーーネアポリス駅六番ホームだ」