ヘレンに


 ポンペイからナポリ中央駅までは車でも四十分ほどかかる。つまりは遠いというほどではないが近くもない距離。

「ねぇ、本当に大丈夫?」

 病み上がりの体で運転するのは辛いのでは、と。ジョルノを気遣うが、彼は交代の申し出を受け入れてはくれない。
 「平気ですよ、慣れていますから」以前はこういったアルバイトをしていたのだとジョルノは鏡越しに微笑む。だから名前もそれ以上食い下がることができなかった。無理はしないで。そう声をかけることくらいしか。

「しかし……『列車』なんかに乗って大丈夫なのか……?」

 アバッキオは手に入れたばかりの『鍵』をためつすがめつ眺め回す。しかしそうしても『鍵』に刻まれたボスからのメッセージは変わらない。
 『ネアポリス駅六番ホームにある“亀”のいる水飲み場へ行きこの“鍵”を使え。そして列車にて娘をヴェネツィアまで連れてくる事』ーーそれがボスから下された最新の指令だった。
 だがチームの誰もがその意味を理解できなかった。いったい水飲み場などで何が待ち構えているのだろう。水飲み場の鍵を開けたら地下に専用の列車が隠されているーーなんてファンタジー小説みたいな展開は逆立ちしたって起こるはずもない。となるとこの『鍵』は何のためのものなのか。
 考えたって仕様のないこと。名前にはちっとも想像がつかなかったし、それはアバッキオも同じだ。

「ボスは『敵に見つからず移動できる方法』のため、その『鍵』を手に入れろと言った!それを信じるしかない……!」

 名前はボスに不信感を抱いている。当然だ。この組織を調べている最中、友人は失踪したのだから。
 だが今は信じたいと思う。パッショーネのボスとしてではなく、トリッシュの父親として。子を想う父親という想像を信じていたかった。何より、トリッシュのことを思えば。

「あなたは平気?疲れて……いるわよね、やっぱり」

「……いえ、そんなことないわ」

 直に駅に着くという段になって。周囲への警戒はミスタに任せ、名前はトリッシュの様子を窺った。
 隣に座る彼女はこれまでと変わらぬ風であった。どこまでも落ち着いた瞳は凪。苦痛も不満も感じ取れはしなかった。けれど、それだけが真実とも思えない。
 実際、返答に少しばかり時間がかかった。声をかけられて、我に返ったような。思索に耽っていた少女は、しかしそれを見せぬようにと殊更用心深く行動していた。
 だが間近にいる名前には感じ取れるものがあった。口元の強張りだとか力の抜けない体であったりとか。そうしたものが気にかかったから、名前はトリッシュに上着をかけた。

「……なに?」

「冷えてきたでしょう?それにそのまま屈むのはあんまりおすすめできないわ」

 トリッシュは靴を履き直そうとしていたが、その体勢では余りに胸元が心許ない。
 彼女にも抜けているところがあったのか。気づいた様子もなかったから、名前は眉尻を下げた。
 こんな助言、余計なお世話かもしれない。けれどもし本当に気づいていなかったなら大変だ。こんなことでまで彼女を傷つけたくはなかった。

「そう。……ありがと」

「いいえ、どういたしまして」

 そんなことを思いながら、名前はかけたばかりの上着の胸元をしっかり留めていく。外は夕刻。黄昏は夜の冷ややかな風を伴い、町に降り立っていた。
 でも冷たいばかりではない。重ねた少女の手。指先の冷えは名前が温もりを分け与えたことで春に溶けていく。そのことに笑みを溢す名前であったけれど。

「あ〜……惜しかったなぁ〜〜〜」

「ハァ?なんの話です?」

「いやだってよォ……もうちょいで、なぁ?いぃ〜感じのとこだったんだが」

「……ミスタ?」

 ニヤニヤと横目でトリッシュを見るミスタに、名前は眼差しを凍らせる。だが幸いなことにトリッシュはまだ勘づいていない。ミスタの笑みを気味悪げに見ているだけだ。ついでに言えばフーゴも。わけがわからないといった顔でミスタとトリッシュを交互に見やる。
 が、聡明な彼にはすぐ察しがついたらしい。ミスタの下卑た笑いと名前の険しい顔。それから非難の内容を思い出しーー心底軽蔑したといった風に冷ややかにミスタを見た。

「あんた……こんな時に何考えてるんですか」

「けどよォ〜男なら気になるのがフツーだろ?フーゴ、お前だってさ」

「一緒にしないでください」

 そこでフーゴはちらりと名前に視線を移した。「本当に、ミスタのは質の悪い冗談ですから」信じないでくれと懇願され、今度は名前が目を瞬かせる。

「わかってるわフーゴ。あなたは真面目だもの。ミスタみたいにいやらしいことばっかり考えているような人とは違うものね」

「オイオイひでぇなァ〜〜〜」

 向かいに座るフーゴ。彼を安心させようと名前は目元を和らげる。そうすると彼の方もほっと頬を緩ませるものだから、ミスタの発言は余程迷惑なものであったのだと察することができる。
 だがミスタはめげない。フーゴの肩に手を回し、それから。

「オメーだって興味ねぇわけじゃあねぇだろ〜?大丈夫だ、オレはちゃあんとわかってるぜ。……特定の誰かさんのじゃないとダメなだけだよな」

「……っ、み、ミスタッ!!?」

「おっとあぶねぇ……」

 内緒話でもするみたいな耳打ち。けれどミスタに隠す意図はなかったらしく、その内容は名前にも漏れ聞こえてきた。お陰でフーゴの頬が赤らんでいるのも、彼が慌てた様子でミスタの口を封じようとするのも、その理由までが名前には察することができた。

「もう、あんまりフーゴを揶揄わないでよ。いいじゃないの、それだけ一途ってことなんだから」

「ほォォ〜……」

 特定の誰かじゃないと。ミスタは揶揄いの目的でそう言ったのだろうが、名前からすればそれはごく当たり前のこと。そういうことは特別な人にだけ。その考えが本当だとしたらとても好ましいものだ。
 というのは女性である名前特有のものだったのか。ミスタは意味深な眼差しと声を名前に向け、次に再度フーゴへと水を向けた。

「よかったなぁフーゴ〜〜〜」

「だから絡むの止めなさいったら」

 相変わらずの笑み。そのままにまたフーゴへと絡むものだから、名前は口を挟む。そうしないといつまたフーゴがキレるか。今回のは正当防衛と言えようが、この狭い車中で殴り合いなんかされたら目も当てられない。
 と、名前はハラハラと事の成り行きを窺ったのだけれど。

「ねぇ、フーゴ……フーゴ?」

「え、……な、なんですか?」

「ううん……」

 時間でも止められたみたいに。驚きと羞恥とを滲ませたまま、フーゴは固まっていた。名前を呼び掛けることで石化は解けたが、しかし言葉を縺れさせる様子は常時の彼らしくない。いったいどうしたのだろう。
 ーーすると。
 首を傾げる名前の隣、それまで関わり合いになりたくないと沈黙を守っていたトリッシュが深々と溜め息を吐く。やれやれと呆れた風に。溜め息を吐いて、名前にだけ聞こえる囁きを落とした。
 ーー鈍感、と。