未知との遭遇


 夕刻のナポリ中央駅。人でごった返す中を警戒しながら歩き、電工掲示板を見上げる。フィレンツェ行きの列車は六番ホーム。十六時三十五分発。あと五分ほどで発車予定だ。

「結構ギリギリね、間に合うかしら」

「……とにかく水飲み場まで行ってみよう」

 不安を見せる名前に、ブチャラティは固い表情のまま。メッセージ以外の連絡はないから、ボスの指示を信じるしかない。きっと、水飲み場まで行けばわかるはずだ。

「おい、」

 遠出する人というのはそれなりの荷物を抱えている。スーツケースを引き摺る者。大きなリュックを背負う者。そうした人たちの合間を周囲に警戒しながら足早に歩いていく。
 ーーと。不意に名前の左腕が引かれた。背中に感じる固い胸板。「気をつけろよ」頭に降ってくる低い声。

「アバッキオ、」

 仰ぎ見る名前の横。先刻まで名前がいた場所を子供が駆け抜けていった。彼が腕を引いてくれなかったらぶつかっていたかもしれない。

「ありがとう」

 微笑んでも彼の表情は変わらない。相変わらずの仏頂面で鼻を鳴らす。

「けどそんなに面倒見てくれなくても私は平気よ?」

「どうだかな」

「もう、またそういうこと言って……。いいわ、今度は私が華麗にあなたを守ってあげるから」

「期待せずに待ってるぜ」

 小馬鹿にするみたいな笑い。けれどその後も彼は名前の側から離れることをしなかった。まるでその背を守るように。彼は黙したまま、わかりづらい優しさを名前に見せてくれていた。
 ホームには既に列車が待ち構えていた。イーエス・スターーーこの国最速の列車だーーならば、ナポリ中央駅からフィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅までおよそ三時間。予定通りに進んだとしても長い道のりになる。

「トリッシュ、このまま乗っちゃっても平気?何か必要なものとか……」

 言いかけて、そんな時間はないのだと思い出す。時刻は十六時三十一分。これで乗り遅れでもしたら間抜けもいいとこ。それをトリッシュもわかっていたから、諦めた様子で緩く首を振った。

「幸い列車だし、そこまで不便はないでしょ」

 トリッシュはそう言うが、名前は曖昧に笑むことしかできない。相次ぐ襲撃。平穏を約束するのは難しいことだ。仮初めの慰めなどなんの足しにもならない。今更彼女に取り繕うことなど名前にはできなかった。

「お前たちは先に乗っててくれ」

 六番ホーム、水飲み場。それは一両目のドア付近にあった。
 そこでブチャラティは辺りを気にしながら名前たちに指示を出す。ここは人目につきやすい。だからせめて、と列車に乗り込むよう言った。

「いったい何が隠されてんだろうな、なぁナランチャ?」

「今度こそヘリコの鍵じゃねーか?フィレンツェからヴェネツィアまでひとっ飛びだ!」

「それじゃあ二度手間ってモンだぜ。もうちっと夢のあるヤツがいいなオレはよォ」

「じゃあロボットだ!アニメで観たことあるぜ!!あーいうんは地下に隠してあるんだってな!」

 なんだかワクワクした様子のミスタとナランチャ。冗談半分。とはいえその目が少年らしい空想に輝いているのは確かなこと。

「何バカげたこと言ってんですかね、あの人たちは……」

 彼らの後に続き。列車に乗ったフーゴは後ろにいた名前に同意を求めてきた。あなただってそう思うでしょう?言外に言われ、名前は緩く笑む。

「なんにせよ直にわかることよ。それまでは夢を見させてあげましょ」

「まぁそうですね。どうせ当たりっこないですし」

 釣られるようにして口角を上げたフーゴは軽く肩を竦めてみせた。聡明極まりない彼は現実主義者でもあったのだ。

「それでブチャラティは?」

「それが……なんだか手間取ってるみたいです」

 名前の後にいるのはジョルノとブチャラティだけだった。ジョルノは列車から身を乗り出し、ホームに残るブチャラティを気にした。

「ブチャラティ、そろそろ乗らないと」

「わかってる……」

 名前からはブチャラティの顔色は窺えない。が、漏れ聞こえる声が焦燥の色を帯びているのだけは伝わってきた。

「なぁ、ブチャラティはまだァ?」

「ちょっと待ってナランチャ、」

 急かす声を押し留め、名前はフーゴと顔を見合わせた。

「何かしら、六番ホームの水飲み場……ここしかなかったはずよね?」

「ええ、一通り目は通しましたが……」

「なら伝言内容が間違ってたんじゃあ……」

「まさかそんな、」

 フーゴと言葉を交わしている間も時間は過ぎていく。ブチャラティが焦った様子で辺りに視線を走らせるのも、ジョルノが列車を遅らせる提案をするのも。……不意に息を呑んだブチャラティが、“何か”を抱えて列車に飛び乗るのも。

「え、」

 すべてが名前にとって一瞬の出来事だった。
 気づけば景色は一変。狭い車内にいたはずなのに、側にあった冷たい壁はすっかり消え失せていた。

「……大丈夫ですか?」

「え?えぇ、ありがとうジョルノ」

 八人、縺れ合うようにして投げ出されたのは見覚えのない部屋。名前はジョルノに凭れかかるようにして座り込んでいたし、それに気づいたジョルノは名前の手を取って立ち上がらせてくれた。

「な……なんなんだ!?こ……ここは!?」

 呆然とする皆を代表し、声を上げたミスタに。既に冷静さを取り戻したブチャラティは落ち着き払った声で説明を始めた。
 水飲み場にいた亀がスタンド使いであったこと。そしてここは亀の中であろうこと。この部屋こそがボスの用意した安全な乗り物であろうことを。

「か……亀がスタンド使い……」

 ナランチャは信じられないといった風。けれど名前はブチャラティの説明に得心がいった。
 それは名前に覚えがあったからだ。人間以外のスタンド使い。かつて、気高き魂を持った“彼”と共に戦った経験があったからこそ。そういうものなのだと受け入れることができた。

「でっ……でもカッケいいいいィーーッ!宇宙船みてーな『亀』だなあー」

「しかしこの部屋……幻覚とかではない。本物の部屋ですよ……これ……」

「冷蔵庫の中も飲み物が冷えてるぜ……」

「TVもつくぜェー!なんで電気とか電波まで来てんだ、亀の中によォ〜〜?」

 この部屋には必要最低限のものが用意されていた。飲料や食料。長時間の移動を見据えての誂えに、ブチャラティは「ボスが気を利かしてくれたんだろう」と言った。
 けれどトリッシュはそれに反応を示さない。彼女は一人掛けのソファに腰を下ろし、テーブルに置かれたファッション雑誌を手に取った。

「トリッシュは何か飲む?」

 名前はアバッキオの後ろから冷蔵庫を覗き込んだ。コーラにミネラルウォーター、色とりどりのジュースは若者向けにだろうか。

「水でいいわ。ガスなしでね。あと氷もお願い」

「氷も?あんまり体を冷やしちゃダメよ」

「けどここ空気が籠ってそうなんだもの」

 ……まぁ確かに。密閉された室内は空気が停滞しているように思える。それに外界よりも大分暖かかった。
 名前は頷いてトリッシュにグラスを差し出す。「ありがと」「いいえ、どういたしまして」その一言。トリッシュはにこりともしなかったけれど、名前はそれで十分だった。だって彼女は名前との会話を嫌がらなかったし、何より話している時はほんの少しだけ目元が和らいでいたからだ。
 ーー気を許してくれている。それを感じ取って、名前は一人頬を緩ませる。

「……あなたもよくやりますね」

 甲斐甲斐しく世話を焼くのを見て。フーゴからは呆れ混じりの呟きを齎されたが、気にしないことにした。