グッドフェローズ
午前零時のネアポリス。ドゥオーモ近くのリストランテではひとりの青年が管を巻いていた。
「ううっ……兄貴ィ……」
青年……と言ったのはその外見から。名も知らぬ客人は名前より歳上のように思われた。ブチャラティと同じくらいか、それより少し上か。
だがその様子は名前の尊敬する彼よりもずっと幼い。テーブルに頬をつけ、おいおいと泣く姿からは。いたいけな少年のように思われて、名前は戸惑ってしまった。
リストランテはもう閉店時間を過ぎた。従業員も名前しか残っていない。他は全員帰らせてしまったからここにいるのは名前と客の青年だけ。そして彼を介抱するのも名前にしかできないことだった。
「シニョーレ、ええっと……」
「シニョーレぇ〜?」
名前は彼の名前を知らない。知らないから一般的な呼び掛けをした。間違ってはいない、はず。
なのに顔を上げた青年はおかしそうに右側の口角を持ち上げてみせた。
「シニョーレ……違うなァ〜、オレはマンモーニ、オレなんかはそう呼ばれんのが当然さ……」
「そ、そんなことないと思うわ」
まったくわけがわからない。すっかり酔いが回っているらしい青年は名前の預かり知らぬところの話を始める。相手がただの従業員だということすら頭から抜け落ちているようだ。
そんな状態だというのに青年はさらにグラスを空ける。ストレートのリモンチェッロ。レモン色の鮮やかな食後酒は甘さに反して度数が高い。そんなものを勢いよくぐびりと飲み干して、青年はまた深い溜め息を吐く。
「いいや……オレはいつもそうなんだ。いつもいつもブルっちまって……でもよォ〜……オレだってやれるんだ、オレだってよォォ〜〜〜……」
……これは長くなりそうだ。
名前は覚悟を決め、青年の隣の椅子に腰を下ろす。そうして彼のグラスに然り気無く水を注いでやった。この様子ではもうアルコールと水の違いもわかりやしないだろう。
そうしてから名前は青年の頭を撫でた。
「大丈夫、誰にだって怯えはあるわ。どんな立派な人だって最初は子供だったんだもの」
「そんなモンかなァ〜……」
「ええ。きっとほら、あなたの兄貴?さんも昔はそうだったはずよ」
「はぁ〜……想像つかねぇや……」
彼の名前も知らなければその生い立ちだって当然名前に知識はない。彼の兄貴のことなどもっての他。だからそう、名前の言葉など一時の慰めにしかならないだろう。
だがそれが余程おかしかったらしく、青年は小さく笑い、それから『兄貴』の話をしてくれた。
彼と『兄貴』は本当の兄弟ではない。仕事の上で青年の指導をしてくれている人、それが彼の敬愛する『兄貴』らしい。
「兄貴は凄いんだぜ……。いつだって顔色ひとつ変えずにやってのけるんだ。オレも兄貴に憧れてよォ〜……あーいうのが男の理想ってヤツなんだよなァ〜……」
「随分立派な方なのね……」
青年の言葉で思い出したのはブチャラティのこと。それから彼をヒーロー視しているナランチャのことだった。
青年の瞳。酔いに溺れた今でも『兄貴』のことを語る時には澄んだ輝きが宿る。真っ直ぐな、穢れのない憧憬。それは名前にとって好ましいもので、親近感を抱かずにはいられなかった。
「じゃあそんな人とお仕事できるあなたもきっといつの日か“そう”なれるんじゃないかしら。じゃなきゃその人も目をかけたりしないはずだわ」
だからナランチャのことを思い浮かべながら名前は言った。大切な彼に語りかける心持ちで。青年に彼を重ね合わせて言ったところ。
「う、うぅ……」
「ど、どうして泣くの、」
「だ、だってよォ〜〜……」
名前にとってはなんてことない台詞。何の気なしに言った台詞であったけれど、酔っ払いの涙腺を刺激するにはそれだけで十分だったらしい。
ありふれた言葉に青年は大粒の涙を溢し始めた。子供のように周りに憚ることなく。声を上げて泣き、名前に取り縋った。
「あ、アンタいい人だなァ〜……」
「あ、ありがとう……」
涙に慌てたのは暫しのこと。抱き着かれ、けれどその邪気のなさに名前は「仕方ないなぁ」という気持ちにさせられた。気分は子を宥める母親。眉尻を下げ、名前は青年の背中を優しく撫でた。
ーーその時。
「……まったく、オレがいないからって何迷惑かけてんだ」
からん、と鳴ったのは来店を知らせるベル。閉店の印は出しているはずと振り返った名前の前に、ひとりの男が立っていた。
ーー男。そう、性別で言えば彼は紛れもなく男である。が、そう形容するのはなんだか罰当たりな気がした。それくらいに彼からは神の息吹のようなものを感じたのだ。
初めに思ったのは彫刻。例えばそう、ベルヴェデーレのアポロン像のような。かつて見たことのある美しきものを名前に想起させた。
そしてそんな彼は青年が散々話題に出していた人でもあったらしい。
「あ、兄貴ィ……」
「オメーは……ったく、オレが仕事で出てるからって気ィ抜けてんじゃねぇか」
『兄貴』は青年に小言を言いかけて、それから名前に視線を向けた。
静かな目だった。冷たいというのではなく、それは僅かばかり差し込む月光のような色であった。
「悪い、世話かけたな」
「いいえ、平気よ」
彼は青年の腕を取り、立ち上がらせた。よろける足元。そんな青年を支えながら、しかし彼のしなやかな体躯が揺らぐことはない。鍛えている男だというのがこれだけでわかる。
彼はもう一度名前を見た。合わせて立ち上がり、彼らを見送る姿勢を取った名前を。見下ろし、その目から何かを読み取ろうとした。
気がかりがあるのだと名前は察した。きっと、恐らくは。知らなければならない。けれど直接口にするのは憚られること。そこから導き出される答えに、名前は思案し、それからゆっくりと口を開いた。
「大丈夫、本当になんにもなかったわ。彼、随分と酔っていたから経緯も……それこそ名前だって全然教えてくれなかったんだもの」
たぶんきっと。彼の気がかりは酔った青年が『何を話したのか』という一点であろう。どんな職業だって企業秘密というものはある。それを勢いで見知らぬ女に口を滑らせたのではないかーー彼はそれを気にしているのだろう。
そしてその推測は間違っていなかったらしい。
「……そうか」
完全に信じたというわけではない。が、彫像のような固い顔がほんの少し和らいだ……ように見えた。
「邪魔したな、……おい、行くぞ」
「あぁ、待ってよ兄貴、」
彼は懐から何枚かの紙切れを取り出すと、無造作にテーブルへと置いた。……紙幣だ。青年の注文より多いお金がそこにはあった。
チップを考えても余計だろうお金には、『口止め料』も含まれているのだろう。後は名前の時間を割いた詫びのつもりか。
心情としては突き返したいところ。名前はなんの迷惑も被っていないし、気にしないでほしいと本当は言いたい。が、それでは彼は納得しないだろう。金を握らせることで確かな安心がほしいのだ。
「待って、」
「……なんだ」
「今度は営業時間にいらして。うちのピッツァは本当に美味しいのよ。今度ご馳走させてほしいわ」
そこまで考えて、名前は彼らを呼び止めた。名前としても納得したかったのだ。頂いたお金には及ばないが、少しは彼らに、と。
そう思い、誘う言葉に。
「……あんた、いい女だな」
恐ろしいほどに美しい男は、仄かな笑みを唇に刷いた。非の打ち所のない大理石。そこに真なる美を彫り、名前に笑みかけたのだった。
その言葉だけを残し去っていく男を名前は見送ることしかできない。
「あんなに綺麗な人ってこの世にいるのね……」
影すらも消えた夜の闇に、名前の溜め息混じりの独り言が落ちる。
幼馴染みも大概整った顔立ちをしていたが、彼はまた方向性の違う美しさを持っていた。丁寧に磨き上げられた美。美術館の庭園なんかがよく似合いそうだ。
「兄貴、か……。うーん、悪くない響きね」
いいコンビだと思う。まだまだ若輩者の青年と、それを教え導く男。男同士にしか生まれない絆のようなものは名前に憧れを抱かせた。名前がもし彼の部下にでもなっていたら青年と同じように彼を兄貴と慕ったろう。
そんな有り得ない空想に思わず笑ったところで電話が鳴った。
「はい?」
『あ、名前?』
電話の主はナランチャだった。帰りが遅いことを心配した彼がわざわざ掛けてきてくれたのだ。
『こんな時間だし迎えに行くよ』
「え、大丈夫よ」
『いいから!待ってて、』
ぶつり。強引に切られ、取り残されたのは機械音。受話器を手に目を瞬かせた名前だが、聞き慣れた声とたった今の台詞を噛み締め、ひとりはにかんだ。
「兄貴はいないけど、……ふふっ、私ってなんて幸せ者かしら」
何故だか無性にナランチャを抱き締めたい気分だった。抱き締めて、親愛と感謝を伝えたい。そんな思いにかられ、名前は胸を弾ませた。