Epifania
よろめいた体を抱き留めたのはブチャラティではなくこのぼくだった。
「ありがとう、フーゴ」
「いえ、……それよりちゃんと周りを見ててください。まったく、危なっかしい」
そんなつまらない、些末なことにさえ心は安堵する。しかしそれとは裏腹に口から飛び出るのは可愛いげのない台詞。顰めっ面さえわざとらしい。
とはいえ反射的な反応は自身にすらどうすることもできず。憎まれ口を叩くのを、ぼくはハラハラしながらーー自分のことだというのにーー見守った。
「そうだな、まったくその通りだ」
「二人して……。周りならちゃんと見えているわ。見すぎちゃってるのが問題なの。あんまりにも……、ほら、みんな楽しそうだから」
けれど名前が気分を害した様子はない。ブチャラティまでもがぼくの言うことに賛同するものだから、拗ねたように口を尖らせてはいるが。それでも不満はそれだけ。ありがとうと言った時と同じ、親愛の籠った眼差し。
変わらず向けられる瞳に、ぼくはそっと息を吐く。
ぼくのそんな苦悩や喜びなど二人は知る由もない。ブチャラティは名前の台詞に「もうすぐエピファニアだからな」と頷いた。
「子供たちへのお菓子選びにみんな忙しいんだ」
この国では一月六日のエピファニアまでがクリスマス・シーズンだ。そしてエピファニアではクリスマスと同じく、子供たちへプレゼントを贈るのが慣習となっている。なんでも東方の三賢王が幼いイエスへ貢ぎ物を捧げたのが由来だとか。
お陰で夕刻の広場にはお菓子やおもちゃの屋台がところ狭しと並んでいる。故に集まる人もそれだけの数、そして揉め事も同じだけ起こるのが悲しいところだ。
今日のぼくたちの仕事もそうしたことから端を発していた。要するに喧嘩の仲裁だ。商売の邪魔をされたとかなんとかでこの地域を担当するブチャラティに声がかかった。
だからといって当人が出向くこともないのだが、本心は本人にしかわからぬこと。名前が着いていくと言い出してから「ならオレも」と席を立ったのだって深い意味はないのかもしれない。ぼくにはわからない。ただ、その様子にぼくの心中が波立ったということだけしか。
ともかくぼくは気が気じゃなかった。仕事を終え、こうして帰路についている今も。彼の眼差しに熱はないかとか、彼女の視線がどこに向いているかとか。そんなことばかりが気になってしまっていた。
「お菓子……」
「よかったら見ていきますか」
だから彼女の目が一瞬屋台の方へと興味深げに向けられたのにもすぐ気づいた。気づいて、咄嗟にぼくはそう誘っていた。なんてことはないという顔で。深い意味などないという風に。誘うぼくの、なんと罪深いことだろう。
「いいの、フーゴ?付き合ってくれる?」
「ええ、いいですよ」
途端に食いつく名前。たぶん最初から気になってはいたのだろう。ただ一人でこの人混みに踏み入る勇気がなかっただけで。
そんなことにまで察しがついているから、彼女の言葉にも特段の意味はないのだとわかっていた。わかってはいる、……が、それと自分がどう感じるかはまた別の話。歓喜の波が起こるのは自分の手には負えない。
ぼくはちらりと視線を上げた。ブチャラティ、彼の方へと。名前の隣に立つ彼は少し思案する風だった。考えて、それから、彼もまた顎を引くのをぼくは微妙な気持ちで見ていた。
「せっかくだしオレも見ていこうかな」
「あら、ブチャラティもお菓子食べたいの?」
意外、と名前は目を瞬かせる。これにはぼくも同感だ。出会って以来、ぼくはブチャラティがエピファニアにお菓子を買っているところなんか見たことがない。恐らく名前が言い出さなければ広場を覗くことだってしなかったろう。
そんな彼は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
「オレだっていい子にしてたんだ。貰ってもいいだろう?」
「あなたほどいい子なんてそうそういないでしょう。……いいわ、あなたには私からプレゼントしてあげる」
「グラツィエ、マンマ」
「ふふっ、私ったら随分立派な息子を持ったものねぇ」
ありがとうと言ったブチャラティは名前に頬を寄せる。親愛の表現として、けれどあくまで冗談めかして。それを名前は擽ったそうに受け入れていた。
そこに他意はない。二人ともがそうだろう。何せこの二人、どこまでも真っ直ぐなのだ。人に隠し事などできる質じゃない。だからぼくが気にすることもない。そう、頭ではわかっているのだけれど。
「……ほら、早くしないとナランチャが待ちくたびれてますよ。夕飯はまだかって」
「え?えぇ、そうね。そうだったわ」
「ならアイツの分も買って機嫌を取ってやらないとな」
ぼくは思わず名前の手を引いていた。常ならば触れることさえ躊躇うというのに。有り得ないほどの大胆さで、ぼくは彼女の視線を奪い取った。
けれど二人ともぼくの焦りには気づかなかった。気づかず、呑気に笑い合っている。それにほっとしているのに、苛立ちが消えないのはどうしてだろう。……まったく、なんと面倒くさい感情だろうか。
「ナランチャにあげたら怒られないかしら?子供扱いするなって」
「いやそこまでは頭が回んないでしょう。貰えるんならなんだって食べますよアイツは」
屋台からは砂糖の甘ったるい匂いが立ち込めていた。これだけで胸焼けしそうだ。でもナランチャはこういうのが好きだから貰ったら喜ぶだろう。いや、名前からのものならなんだって受け取るに違いない。そういったところは似ているからぼくにもよくわかった。
屋台には色とりどりのお菓子が山と積まれていた。赤や黄色に色付けされたお菓子。定番のババやカンノーロ、ズッペッタから、悪い子供に贈る用の黒い炭の形のお菓子まで。
そしてぼくは後者を指差し、「これでいいんじゃないですか」と笑った。
「ちょっとお灸を据えてやらないと。こないだ商店街で派手にやらかしたばかりですから」
「じゃあそれはあなたがプレゼントしてあげて。私は『飴』の方を担当するから」
名前は悪戯っぽく含み笑う。そんなやり取りすら心地がいい。なんだか家族みたいだ、なんて。思い違いも甚だしいとは理解しているが、浮き足立つのは抑えられない。
「名前、」
けれどそんな会話を遮って、ブチャラティは名前に包みを渡した。もう会計を済ませてきたのか。あまりの早業に名前は目を丸くしたまま、促されるがままに贈り物を受け取った。
「あ、ありがとう……」
「いや、お前もよくやってくれたからな。ちゃんと褒めてやらないと」
「もう、子供扱いしないでちょうだい」
ぼくは油断なく様子を窺った。そして名前の言葉に落胆や失望といった色がないのを感じ取り、胸を撫で下ろす。よかった。本当に怒っているというわけではないらしい。もし『そう』であったなら、ぼくは今すぐこの場から立ち去らなければならないところだった。
「それはナランチャやフーゴと分け合ってくれ」
「あら、他の二人にはいいの?」
「……さすがにな」
肩を竦めるブチャラティに、名前はくすくすと笑う。そうしてから振り返り、ぼくを見上げ、そして。
「じゃあ今晩はうちでご飯食べていかない?ね、どうかしら」
「え、……ええ。その、お邪魔でなければ」
覗き込む目。窺い見る瞳は寒空の下澄んだ輝きを放っている。その色にぼくは抗えない。太刀打ちできない。狼狽え、たじろぎ、頷くことしか。
できず、そうしてからぼくはブチャラティを見た。彼は微笑ましいといわんばかりにぼくたちのことを見ていた。そこには恩を売るとか気遣いだとかそうした色はない。彼にとっては特別意識した言葉じゃなかった、ということだ。
ーー敵わないな、と思う。思い知らされる。こうした時に、己の幼さを。ブチャラティ、彼がいかに人として優れているかを。思い知らされ、そのたびにぼくは恥じ入る。
「ありがとうございます、ブチャラティ」
「あぁ、仲良く分け合えよ」
「……さすがにこんなことで揉めるほど子供じゃないですよ」
同時に募るのは憧憬。ぼくが彼になれないことなど百も承知。だけれど、大人というものに憧れを抱いてしまう。彼のようになれたら、と。思ってしまうのは……致し方のないことだ。
「よかった、これで沢山買っても大丈夫ね」
「ちょっと、さすがに考えてくださいよ。ぼくだってそんなに食べられませんから」
無邪気に笑う名前に溜め息を吐く。
ーーどうしてぼくは、と。
こんな面倒事に自分から足を踏み入れてしまったのか。まったく、頭の痛い話だ。だというのに彼女の笑顔を見ていると抗いがたい魅力を感じてしまうのだからーー救いようがなかった。
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