ここより永久に


 白亜の教会。カラフルな家々。透き通る空と境界線を失った海。何気なく開いた雑誌には美しい景色が広がっていた。

「ヴェネツィアか」

 落とされた声に振り仰ぐ。ブチャラティ。名前の後ろに立った彼は、その手の中の楽園に興味を示す。

「行ったことが?」

「ないな、生憎と」

 そんなに気になるのなら、と。名前は自身の隣を空けた。三人掛けソファの右側。眠るジョルノの横を詰め、ブチャラティを手招く。ーーどうぞ。言外に誘うと彼は笑みを深めた。
 亀の中は心地のいい静けさで満たされていた。ポンペイ組ーージョルノ、フーゴ、アバッキオの安らかな寝息。断続的に響くページを捲る音。ここには穏やかな生があった。

「お前は?」

「私?」

 隣に座ったブチャラティが問う。ーーヴェネツィアへ行った経験は?そう聞かれ、名前は記憶を辿る。
 水の都ヴェネツィア。有名な観光地だから両親に連れられて訪れた経験はある。けれどそれはほんの幼い頃の話。彼に話すようなことではないし、そもそも殆ど覚えていない。
 だから名前も「生憎ね」と彼と同じ答えを返した。

「そうか。じゃあいい経験になるかもな」

「そんな時間が取れたらいいんだけど」

 ボスの指令はヴェネツィアまで。父親の元まで娘を無事送り届けること。そこから先はなんの指示もない。
 だから彼らはーー主にナランチャとミスタはーーきっと観光にでも行きたがるだろう。勿論今はそんな時ではないから誰も言葉にはしなかったけれど。
 そうブチャラティは言うが、名前は肩を竦めてみせた。
 確かにボスからの指示はない。が、ブチャラティはもう幹部だ。おまけにボスの娘を護り通したとなれば評価も今以上。信頼を得るということはそれに伴って責任も増す。となれば新たな仕事が任される可能性だってある。『裏切り者』が抜けた分の穴も塞がなければならないし、休む暇もなくなるかもしれない。
 「でも、」夢を見るのは自由だ。今にしかできないこと。そう思い直し、名前はまた雑誌に目を落とした。
 ヴェネツィア。アドリア海に浮かぶ島々。ガラスで有名なムラーノ島。色とりどりのペンキで染められたブラーノ島。ヴェネツィアで最も古い教会のあるトルチェッロ島。それから、同名の教会が美しいサン・ジョルジョ・マッジョーレ島。
 そのすべてが名前にしてみれば非日常。緩やかな時の流れ。それはひどく魅力的だった。

「こうして見てるといいなって思うわ。今は無理でもいつかこうしたところでゆっくり過ごせたらなって」

「……そうだな」

 柔らかな微笑が吹き抜ける。耳元を擽る。春の風。一条の光。ささめき笑いがどちらともなく零れ出す。
 ブチャラティはテーブルの上のグラスを取り、「けどそれは難しいだろうな」と笑った。

「なんせこいつらはそういうのとは無縁だから」

「え?えぇ、そうね」

 名前は一瞬戸惑った。部屋の中。ジョルノやナランチャ、彼ら仲間のことを見渡して。当たり前のように言ったブチャラティに驚いた。これから先もーー名前が言うようなずっと先の未来でもーー自分たちは共にあるのだと。
 なんの気負いもなく言うものだから驚いてーーそれが過ぎ去った後、名前に齎されたのは純粋な喜びだった。

「ねぇ、あなたはどこがいい?どこも素敵で目移りしちゃうわ」

 本来の目的を忘れたわけではない。ただ、それでも。それでも嬉しかった。彼が心を許してくれている。それを実感することができたから。
 名前は口元を緩め、観光雑誌をブチャラティの方へと寄せた。
 彼も珍しく乗り気。「そうだな……」お互いに冗談とわかっている。けれどその瞳は真剣。真剣に夢を描いていた。

「やはりオレは……、」

「……ブラーノ島?」

「あぁ」

 指が止まる。視線の先。そこにはおもちゃの町があった。ブラーノ島。漁業とレース編み、それから様々な色で塗り分けられた家並みが観光資源の島だった。
 観光地としては有名どころ。この国の旅行雑誌には欠かせない場所だが……なんだかイメージと合わない。いや、無論彼が悪いわけではないのだが、意外に思ったのは事実。
 目を瞬かせると、それを察した彼が笑う。

「結構得意なんだ」

「……釣りが?」

「うん、」

 指し示された写真。漁師の男が写し出された誌面を見つめる目。ブチャラティの黒い瞳は深く、その奥底は朧気にしかわからない。
 物思いに沈む眼差し。何かを懐かしむようだ、と名前は思う。なんとなく、直感的に。それは幼馴染みがずっと昔の写真を見ている時だとか、そういったものによく似ていた。

「……驚いたか?」

 顔を上げた彼。ブチャラティと視線が交差する。幾つかの感情が混じり合う。
 深く訊ねてみたい気がした。例えば……そう。幼い頃の話だとか家族のことだとか。そうしたものを語り合いたいような気になった。

「そうね、意外。でも言われてみるとそんな感じもする。あなた、待つのとか得意そうだもの」

「そう言うお前は苦手そうだな」

「む、それはどういう意味なのかしら。やってみたらそれこそ意外と……ってこともあるかもしれないのに」

「そうだな、悪い」

 けれどそのいずれも口にすることはなかった。今の名前にその権利はないし時機でもない。それこそ未来にでも託すべき話題であろう。
 そう思ったから、名前が彼の心に踏み入ることはなかった。代わりに軽口を叩き合い、束の間の安息を守った。二人して。