フーゴ√【子供の話】


フーゴとの子供が出てきます。名前はありません。





 陽光眩しいサンタ・ルチア湾。ここが漁村だったのは今ではもう昔の話。現在はリゾート地としてすっかり生まれ変わっている。

「ほらあなた早くいらっしゃいな」

「置いてっちゃうよ、父さん」

「はいはい、わかってるよ」

 そんなところにフーゴを連れ出したのは妻と息子であった。二人とも活発な質であるから休日にも大人しくしていることなどできやしない。この蒸すような暑さすらものともせずに海岸通りを駆けていく。
 それをフーゴは呆れた風に見守った。翻るスカート。軽やかに跳ねる影。ーー一点の曇りもない笑顔。そうしたものを眩しげに目を細めて見ていた。
 が、やがて急かすように二人が立ち止まるものだから、フーゴも足早に後を追った。
 海には幾つもの小舟が浮かんでいた。まったく、みんな元気なものだ。よくもまぁ好き好んで日差しの下に躍り出るな、と水着の人々を横目で見るフーゴだが、彼だって他の人から見たらなんの変わりもない。
 そう、誰にもわかりやしないのだ。フーゴがこの国一番のギャング組織、パッショーネの顧問役だなんてことは。……誰だって夢にも思わない。

「……お疲れ?」

 ひょいと覗き込む顔。重力に従って流れゆく髪。頬にかかるそれを耳にかけながら、名前はフーゴを見た。気安い語調、しかしその瞳には気遣いの光が瞬いていた。温かな、光が。

「……いえ、まさか。あなたたち二人の相手くらい、さすがにもう慣れましたから」

「あらそう、よかった。でも三人に増えたらどうかしら」

 名前は笑みを深め、つと視線を落とす。腹部を撫でる手。それはまだ膨らみにまでは至っていなかったけれど、彼女の中には既に新たな命が宿っている。
 ……というのに、彼女がそれを気にかける様子はない。第一子の時もそうだったがどうにも楽天的すぎるのだ。フーゴとしては慎重すぎるくらいがちょうどいいと思うのだが、かといって急に性格が変わるわけもなし。

「もう少し落ち着きがあるとぼくとしては有り難いんですがね」

 では息子は、と前方を見る。フーゴと名前の向かい。一人で漕ぐから手出しは無用と言い始めた少年。だがしかしその興味は移ろいやすく、櫂は既にお飾りに。
 しかも次は「泳ぎたい」と言い出すものだから、フーゴは舟を岸へと向かわせなければならなくなった。
 なんという我儘!これが他人だったらぶん殴っていたろう。けれど相手は可愛い我が子。口では苦言を呈するが、そのきらきらとした目を見ると何も言えなくなってしまう。……昔ならば有り得なかったことだ。

「そしたら競争ね!どっちが早く泳げるか勝負だよ、父さん」

「ここじゃそんなに泳げないだろう」

「じゃあどっちが長く潜れるかで勝負だ!」

 昔なら。そもそも子供だった時分には考えたことすらなかった。自分が家庭を持つこと。子を育てること。それは考える以前のもので、空想より早くに諦めることを知ってしまった。
 そう、最初から諦めていた。心のどこかで、自分には当たり前の家族など手に入りっこないのだと。それがギャングに身を落とすしかなかった自分には当然の未来だろうと、恐らく心のどこかで受け入れていたのだ。
 ーーそれが、今やどうだ。

「すごいね、父さん!一気に進んでくよ」

「こら、急に飛びつくなって。危ないだろう」

「ふふっ……、お父さんの邪魔しちゃダメよ。さぁほら、母さんの膝においで」

「はーい」

 無邪気に自分を慕う息子。この子はまだ父親がどんな仕事をしているかすら知らない。無論その過去なども。知る由もないから、少年は笑っていられるのだ。
 ーーけれどもし、ギャングだと知ったなら。
 そうなった時、数多のギャング映画のようにこの温かな家庭も崩壊するのだろうか。優しく穏やかな妻。利発で無邪気な息子。それからやがて産まれる新たな命。そうしたものもすべて掌から零れ落ちていくのだろうか。

「難しそうね、あなたの願いが叶うのは」

「え?」

「ほら、もっと落ち着きがある方が、ってさっき言ったでしょう?」

 心を見透かしたような台詞。心臓がどきりと脈打ったのは反射的な反応。それを押し隠し、聞き返す。
 と、名前は気づかずくすくすと肩を揺らした。そして悪戯っぽく笑い、フーゴの頬に指を滑らせる。

「だってあなたの子供だもの。こんな風に大切にされちゃあ大人しくなんかいられないわ」

 囁きと。落とされるのは軽やかな口づけ。頬へ一瞬触れた温もりはすぐに遠ざかり、けれど温かな微笑としてフーゴに差し出された。
 だからフーゴもゆるりと口角を持ち上げる。
 ーーあぁ、何も心配することなどない。
 彼女の果てのない笑顔を見ていると、心の下坩すらも溶けて消えていく。自然と明るい未来を信じることができた。

「ぼくが一番言いたいのは名前、あなたに対してですけどね」

「あら、それはもっと難しいわ」

 軽口を叩くのに合わせて答えを返す。彼女がしたように唇を添えて。音を立てて触れると、名前は擽ったいとでも言うように身を捩った。

「こんなに甘やかされちゃ私、ずっとご機嫌なままよ」

 夢見るような紫の瞳。瑞々しい薔薇の頬。星の煌めきはいつまでも潰えることがない。出会った頃と変わらぬまま。
 永遠の美とは幸福の約束でもあるのだ。故にフーゴは最愛の妻と子供を抱き締めた。

「そうですか、……それはよかった」

 決して手放すまい。例えありふれた物語のような苦難が襲いかかったとしても、どんな理不尽がこの身を裂いたとしても。
 かつては考えることすらなかったもの。子供の時には永遠に失われたと思っていた家族という形。
 これだけは絶対に守り続けなければならないと強く思うのだった。