ミスタ√【四月四日】


完結後設定。両片想い。





 頬に感じる冷たい感触に名前は思わず空を見上げる。
 広がるのは相変わらずの晴天。春の穏やかな陽光が石畳の街を照らしている。
 けれど一筋、箭の如く身を打ち据える雫。それは紛うことなき現実で、名前は慌てて駆け出した。
 メインストリートにあるカフェ。その二階、アパートメントの一室がミスタの部屋だった。以前住んでいた部屋は壁が薄く、隣人付き合いが面倒だったらしい。

「ここならピストルズの食いもんにも困らねぇしな」

 彼はそう言って笑った。その時は名前も同意を示したのだけれど、内心は違った。ーーそんな理由だったら私を呼んでくれればいいのに。そんなことを思いはしたが、口には出せなかった。出会って数年。心地いい関係は日々に埋没していた。
 ーーそれが、悪いことだとは思わないのだけれど。
 名前はそう思いながら、ドアを開けた。彼から貰った合鍵。それは特別な意味など持ちやしなかったが、抵抗なく開くドアの音は嫌いじゃなかった。

「……大丈夫?」

 室内はしんと静まり返っていた。物音ひとつ、衣擦れひとつしない。それは酷く落ち着かない静寂で、寝室に入った名前はそっと声をかけた。
 丸まった布団。人形に固まったそれが声に答えてもぞりと動く。白い波。その合間から覗く顔は赤い。目は潤み、息は荒くーー咳き込む姿は常の彼からは想像もつかない。

「最悪な気分だ。だからやなんだよ、四月四日なんて日はな」

 しかし口数は減らない。悪態をつく彼に、ほっと胸を撫で下ろす。意識は明瞭。ただの風邪だと言っていたのは本当だったのだ。

「風邪とそれは関係ないでしょう?もうっ、季節の変わり目に油断してるからよ。ちゃんとあったかくして寝なきゃ」

「寝る時はなんにも着ないって決めてんだよ。そうやってオレはここまで生きてきたんだ。けど真冬にだってオレが風邪を引いたか?ないだろ?」

 だからやっぱり今日という日が悪いのだ、というのがミスタの言い分。絶対に自分の主義主張は曲げない。こんな時だってーー声は嗄れているというのにーー話すのを止めようとはしなかった。
 名前は「はいはい」と頷き、布団をかけ直してやる。何を言ったって無駄。説教は元気になってからが本番だ。今は治すことに集中してもらわないと。そう思い、頬に手を添えた。

「熱は計った?」

「あぁ、けど大したことはねぇ。それよか喉の痛みがきついな」

 するりと身を寄せるのは無意識からか。冷えた指先が気持ちいいのだとミスタは目を細める。猫のような仕草。気紛れで気分屋。追いかけると逃げるものだと知っているから、名前は何も触れなかった。内心、とくりと心臓が脈打ったとしても。
 口が割けても言えない本音。包み隠して名前は悪戯に笑む。

「パッショーネ随一のヒットマンも病気には敵わないのね」

「言うなよ」

「言わないわ、こんなに弱りきったあなたのことなんて。……秘密ね、二人だけの」

 眉を下げるミスタ。こうなるとここ数年で精悍さを増した顔も可愛らしく映る。こんな姿、彼の部下が見たら腰を抜かすだろう。
 無論、約束を違えるつもりはない。それは良心の問題だけではなくただ単に……その方が名前にとって都合がいいだけだ。
 ーー秘密。その響きに甘やかさを感じたから。だから誰に話すつもりもない。そう、ジョルノにだって。
 そんな思いを封じ込めて、名前は唇に人差し指を添えた。
 取り繕うのは慣れたもの。だから彼に知られるはずもない。
 ーーけれど。

「…………、」

「ミスタ?」

「いや、」

 小さく息を呑んだ。そんな音がして、目を瞬かせる。しかし問うても答えはなく。ミスタは首を振り、ついと手を伸ばす。
 ベッドの側。身を屈めた名前の頬を掠め、触れる指先。熱の灯ったそれは、重力に従って垂れる髪を一房持ち上げた。

「……濡れてる」

 囁きは至近距離。吐息の残滓すらも感じ取れる。他は静寂。だからこそ時が止まったように思えた。この一瞬。その瞳に射抜かれただけで。

「雨が、降ったから」

 でもすぐに止んだし部屋に入る前に拭き取ったつもりだった。なのにほんの些細な変化にすら彼は気づいてしまう。いつだってそうだ。大きな喪失感を抱えている時だって、彼はそっと寄り添ってくれた。
 そんな彼だから、私はきっとーー。

「なのに来たのか」

 そこに叱責の色はない。呆れも、また。ただ確認をした、そんな響きで彼は呟く。
 髪は未だその手の中。ぼんやりと撫でつける仕草に、心までもが一撫でされる。擦れ、音を立てる。
 「……ええ、」名前は微かに顎を引いた。それしかできなかった。
 ーーどうしてだろう?
 呼吸すらも遠慮がち。張り詰めた空気。探り合う気配。けれど不快ではない。むしろ胸が締めつけられるほどの渇望を覚えた。ーーこのまま時が止まれば。そんな思いが脳裏を掠めるほどに。

「……どうして?」

「それはーー、」

 その思いに呼応するように。問いかけられ、名前の唇は動く。魔法にでもかけられた気分。眼差しに導かれるがまま、答えようとしてーー寸でのところで名前は言葉を呑み込んだ。

「ごめんなさい、あんまり長居するものじゃなかったわね。ご飯は作っておくからしっかり休むのよ?」

 あからさまだ。話題の逸らし方が下手にもほどがある。その自覚はあったが、深く考える余裕はなかった。
 名前はぎこちなく笑み、体を起こす。するりとすり抜ける髪。感触が名残惜しいだなんて嘘。気のせいだ、気にしちゃいけない、考えちゃいけない。それ以上はーー平静でいられなくなってしまう。
 己を御するため、名前は踵を返す。背中を向け、立ち去ろうとした。……そのつもりだった。

「……行くな」

 なのに手首を掴む熱がある。驚くほど強い拘束。或いは名前がそう錯覚しただけか。わからない、ただ、振り返った先にある顔は必死そのものでーー

「行くなよ、名前。頼むからここにいてくれ。どこにも、行かないで……」

 歪む眼。掠れる声は、熱に浮かされた瞳は、病のせいだけだろうか。そうではないのではと思ってしまうのは名前の願望ゆえだろうか。
 燃えるようだと名前は思った。その手も、声も、眼差しも。燃え盛る炎は名前をも呑み込んでいく。熱はとうに伝染し、思考力は低下。「……うん、」と子供のような答えを紡ぐことしかできない。

「行かないわ、どこにも」

 名前は膝をつき、手首に回った手をほどいた。それからそれを自身のもので包み込み、ぎゅっと握った。
 きっと熱で不安になっているのだろう。それならば名前にも覚えがある。らしくない言動にも納得ができる。だから、と名前はその瞳を見つめ返した。

「大丈夫よ、ミスタ」

「あぁ……」

 それでようやく彼も息を吐く。長く深い息を。吐いて、それから彼は空いている左手で顔を覆った。
 漏れ出るのは後悔の溜め息。「かっこわりぃ……」呟きに、名前は目を丸くしてーー思わず笑ってしまった。

「そんなことないわ。あなたはいつだって格好いいもの」

「……慰めはいいって」

 やっぱりツイてない。四月四日なんて最低の日だ。ぶつぶつと呟くミスタの頭を撫で、名前は笑みを深めた。

「そうかしら。私は結構……うん、いい日だったと思うわ」

 そう言うと、ミスタは拗ねたように口を曲げる。

「覚えてろよ……、本調子になったらオレだってなぁ……」

「はいはい。楽しみに待ってるわ」

 有言実行。宣言通り、熱烈な言葉を差し出されるのは生憎と未来の話。今度は自分が熱を出す羽目になることなど露知らず、名前は幸福感に目を細めた。