薔薇の歌


 花瓶に活けられた薔薇がはらはらと音を立てて崩れゆく。朽ちて、砂のように落ちる体。それは今の名前も同じ。ゆっくりと、確実に。名前の体は老いていた。

「おい名前……大丈夫なのかよぉ……」

 泣きそうな声に目を上げる。ナランチャ。大きな宝石のような瞳が今は潤んでいる。波立つ水面。それは触れた途端に決壊しそうなほど。
 けれど名前は微笑んだ。
 だって彼の目は輝きを失っていない。その薔薇は未だ盛り。太陽は天高く、世にも稀な光輝はその瞳の中。その生き生きとした輝きに安堵したから、名前はぎこちなくも口角を持ち上げることができた。

「大丈夫よ、ナランチャ……。私なら平気だから」

「けどさぁ……」

 ナランチャは名前の手を握る。花瓶の中の薔薇と同じ運命を辿ろうとするその指先を。潤いを無くし、枯れ木のようになった手を。躊躇うことなく握り、頬を擦り寄せた。

「見てらんないよ……、だって名前、つらそうだ」

 言われ、苦笑する。今の名前に彼の言葉を否定する材料はない。何を言っても嘘ばかり。繕うにはあまりに疲弊しすぎていた。
 人間を急速に衰えさせるスタンド。その能力の範囲は広く、使い手さえも名前たちにはわからない。ミスタが『彼』を止めてくれなければ勝機はないのだ。
 だからせめて、と名前は自身のスタンドを使うことにした。時間の操作。亀の中の七人、そこから自分を除いた六人の時間を巻き戻し続けることがこの敵スタンドへの唯一の抵抗だった。
 けれど元々名前のスタンドは非力だ。通常は自身とその他もう一人くらいにしか能力を使ったことがない。だから今、こうして能力を使い続けるのはなかなかに疲労の溜まるものだった。

「もう、心配しすぎよ……」

 ーーけれど、だからといって誓いを違えることなどできやしない。
 名前は肩で息をしながらも、それでも平気だと首を振った。とはいえその体はとうに限界。ナランチャの膝の上、寝かされたまま起き上がることすらままならない有り様である。

「……せめて、これを」

「ん……、ありがとう……」

 ジョルノの表情は変わらない。スタンドに襲われたとわかった時も、名前を見下ろす今も。落ち着いたまま、しかしその瞳の奥は微かに揺らいでいる。
 ーー本当に、この人たちは優しいんだから。
 名前は内心笑いながら、ジョルノの差し出してくれたコップに頬を寄せた。冷気はだいぶ減ってしまっているが、それでもまだほんの少しの冷たさが肌に移る。
 その触れたところ、一部分だけがきっと若返っているのだろう。名前にはわからないけれど、それを認めたトリッシュの眉間に皺が寄るのが見えた。

「ねぇ、やっぱり氷を使わなきゃダメよ、間に合わないわ」

 苛立たしげに、そして焦りを纏って。トリッシュはブチャラティを見やった。その柳眉は逆立ち、可愛らしい容貌を険しくしていた。 
 しかしブチャラティは動じない。「いいや、それは認められない」彼は冷静だった。冷静に、しかし苦悩を滲ませて彼はトリッシュを見つめ返した。

「氷は『いざという時に』君だけが使うんだ、君だけが……」

「…………、」

 トリッシュは唇を噛んだ。いざという時。ブチャラティの言う、『その時』とは名前の命の潰える時を指していた。そのことに気づいたから、トリッシュは悔しげに顔を背けた。

「大丈夫よ、トリッシュ……私はそんなに柔じゃないもの……」

 だから名前はその気持ちを解きほぐそうと、感謝を籠めてトリッシュに笑んだ。せめて、と。

「それにこんなにみんなに大事にされるんだから……ふふっ、歳を取るのも悪くないわね。お婆ちゃんになるのがちょっとだけ楽しみになったわ」

「もう名前ったら……冗談はやめて」

「そうね、ごめんなさい……」

 緊張を解こうと言った台詞。その思惑通りにトリッシュは少しだけだが表情を緩めた。
 けれど言った言葉に内心動揺したのは名前自身だった。
 さしたる意図はなかった。何せ頭が回らない。だからふと浮かんだ言葉を口にした。それだけ、であるからこそ真実なのだと実感する。真実、名前は老いを受け入れていた。……昔ならば有り得ないことだ。
 老いること、時間の経過、零れ落ちていく思い出。そうしたものを何より厭っていた。愛おしい思い出を忘れたくなどなかったし、薄らいでいくことすら認めがたかった。戻りたいと願っていた。あの尊い日々。それこそが幸福であり、それ以上のものなど考えたこともなかった。……考えないように、していたのだ。
 けれど今、名前は思ってしまった。こうして時間を重ねて。そうした先で、遠い未来で、大切な人に看取られて眠ることをーー悪くはないと思ってしまった。
 これこそが時の経過というものなのだろう。どんな深い傷もいつかは思い出に変わる。呪いだって、いずれは風化するのだ。事実、名前は彼らと共に歩む未来を夢見てしまったのだから。

「やっぱり、ちょっとだけ感謝しないといけないみたい……」

「なに言ってんだよッ!オレはぜってー許さねぇからな!名前をこんな目に遭わせやがってよォ〜〜ただじゃあおかないぜッ」

 ナランチャはすっかりご立腹。自分が老化させられた時よりもよほど怒っている。
 でも名前もそうだった。今でこそ落ち着いているけれど、みるみる内にナランチャが老いていくのを見た時は肝が冷えた。なんてことをしてくれるのだ。そう思ったし、崩れていく体に泣きたくもなった。
 だから今の彼の姿は鏡。名前は自分を見ているようでおかしな気持ちになる。

「大丈夫よ、敵はきっとミスタがとってくれるわ……」

 未だ老化は治まらない。けれど不安はなかった。ミスタ。彼のことを信じていたから。